ストーリー
大舞台での優勝に縁がなく、2着(銀メダル)や3着(銅メダル)を繰り返す。そんな存在をスポーツの世界では“シルバーコレクター”“ブロンズコレクター”などと呼ぶ。
ステイゴールドが、まさにそんな馬だった。
二冠馬サニーブライアンやマイル王タイキシャトルらと同じ1994年生まれのステイゴールド。父サンデーサイレンス、伯父にサッカーボーイがいるという血統はそれなりに期待を集めたが、デビューは2歳12月、初勝利は3歳の5月と、同世代の中では頭角を現したのが遅い部類に属すといえる。
未勝利脱出に続いて500万下も勝ち、秋には900万下も勝ってなんとか菊花賞出走を果たしたが、8着という目立たぬ成績。以後も勝ちあぐね、1998年・4歳を迎えた時点では準オープン馬に過ぎなかった。
が、ダイヤモンドSで2着となってから、この馬の「銀と銅のコレクション人生」が幕を開けることになる。
まずは天皇賞(春)で、メジロブライトの2着。宝塚記念ではサイレンススズカを4分の3馬身差まで追い詰めての2着。天皇賞(秋)でもオフサイドトラップの2着となり、有馬記念では3着だ。
重賞勝利のないまま、すっかり古馬中長距離路線の安定勢力として認知され、愛されるようにもなったステイゴールドは、1999年の5歳時も我が道を往く。春は日経賞、金鯱賞、鳴尾記念、宝塚記念で3着、秋は天皇賞で2着。さらに6歳になってもコレクションを増やし、アメリカジョッキーCCが2着、京都記念3着、日経賞2着。あのダイヤモンドS以降の重賞成績は、2着7回、3着7回という鮮やかなコレクターぶりだ。
ようやく金メダル=重賞タイトルを手にしたのは、6歳の春、目黒記念でのこと。2着・3着がこの馬の指定席と思い込んでいたファンは、驚きと喜びとを半々に抱きながら、そのゴールを見守ったのだった。
重賞初制覇を果たしたステイゴールドだったが、以後は掲示板を外す機会が増えていく。しかしこれは、ステイゴールドが“海外仕様”へとモデルチェンジを果たす助走期間だったのかも知れない。
明けて7歳となった2001年、初戦の日経新春杯をあっさりと勝って重賞2勝目をあげたステイゴールドは、果敢にドバイへと遠征。後に全米芝チャンピオンに輝くファンタスティックライト、アーリントンミリオンを勝つシルヴァノらを押さえ、ドバイ・シーマ・クラシックを制してみせる。
さらにその年の暮れ、引退レースとして選ばれた香港ヴァーズも強烈な差し脚で勝利。なんと「日本産・日本調教馬による初の海外G1制覇」を成し遂げてみせる。
あれほど勝ち切れないレースを続けた馬が達成した大偉業。こうしてステイゴールドは、記憶にも記録にも残る馬として、競馬史にその名を刻んだのである。