ストーリー
1990年11月、第51回菊花賞。そのパドックで、芦毛ながらまだ白くなりきっていないメジロマックイーンの馬体に、王者の風格を感じた人は多かったに違いない。
その年“メジロ勢”のエースはメジロライアンだった。春は皐月賞3着、日本ダービー2着とタイトルは取り逃したものの主役級の活躍を見せ、秋初戦の京都新聞杯では重馬場をものともせず豪快な差し切りでレコード勝ち。もちろん1番人気を背負い、悲願のGI奪取を目指しての菊花賞出走だった。
さらに日本ダービー3着、菊花賞トライアルのセントライト記念では4馬身差の圧勝を飾ったホワイトストーンが2番人気。スプリングS勝ち馬アズマイースト、日本ダービー4着のツルマルミマタオー、京都新聞杯で3着を分け合ったオースミロッチとメルシーアトラなどもいた。
これらに混じってメジロマックイーンは、実績以上の4番人気に推されていたのである。
メジロマックイーンのデビューは3歳2月、ダート1700mの新馬戦。ここは2番手からの抜け出しで勝利したが、芝に移ってからは、ゆきやなぎ賞2着、あやめ賞3着と惜敗を続けた。ダートに戻って渡島特別2着、木古内特別1着とようやく2勝目をあげ、ふたたび芝に挑戦。大沼Sが1着、準オープンの3000m戦・嵐山Sが2着という成績だった。
そして迎えたのが菊花賞、すなわちメジロマックイーンは、GIどころか重賞にも初挑戦の身。にも関わらず4番人気という高い評価を得た理由は、まずは4着以下のない安定感があっただろう。さらに父メジロテイターンの血も大きかった。天皇賞をレコードで制した馬であり、その父メジロアサマも天皇賞馬。代々受け継いだスタミナ適性を、ここ菊花賞で輝かせることがメジロマックイーンには期待されたのだ。
いかにもステイヤーらしい、研ぎ澄まされた柔らかい馬体も目を引いた。
確かに、メジロマックイーンは類稀なるスタミナの持ち主だった。
マイネルガイストが引っ張り、途中からはオースミロッチが先導したレース。メジロマックイーンも好位5番手につけると、2週目の3コーナーから早くもジリジリと進出していく。そして直線、馬場の真ん中を通ってメジロマックイーンは堂々と抜け出した。
外からはメジロライアン。これを振り切る。内からは馬群を割って追い込んできたホワイトストーン。これも1馬身4分の1差封じ込める。そうしてメジロマックイーンは、3歳クラシック第3冠目を手にしたのだ。
翌1991年、メジロマックイーンは天皇賞(春)を勝利し、親子三代天皇賞制覇という大偉業を達成する。さらに1992年の天皇賞(春)も連覇。時代を代表する名ステイヤーへと成長していくことになる。
その躍進のスタートとなったのが、この菊花賞だったのである。