ストーリー
父は偉大なるサンデーサイレンス、母は重賞2勝のアイリッシュダンス、その父はトニービン。近親にもオープン級の馬がズラリと並び、兄や姉も条件級とはいえ常に上位を争っていた。社台レースホースにおける募集価格は6000万円と高額だ。
そんなプロフィールを持つハーツクライは、同世代の中でも、早くから期待を集める1頭だったといえるだろう。
期待にたがわず、ハーツクライは3歳クラシック路線で活躍を見せた。デビューは明け3歳1月と遅れたが、きっちりと初戦を制し、キャリア2戦目で挑んだきさらぎ賞でも3着と善戦。さらに若葉Sではスズカマンボを降して勝利すると、皐月賞14着後、京都新聞杯では大きく巻き返して重賞初制覇を飾る。
そして日本ダービー。キングカメハメハには1馬身半及ばなかったものの、豪快な末脚で2着に追い込み、世代トップクラスの実力を示してみせたのである。
が、ここからハーツクライの苦難が始まる。
秋初戦の神戸新聞杯で、またもキングカメハメハの後塵を拝して3着に敗れる。そのキングカメハメハがリタイアし、菊花賞では1番人気を背負うことになるのだが、人気に応えられず7着。果敢に挑戦したジャパンカップと有馬記念でも10着、9着と苦杯をなめた。
明けて4歳となっても、状況は変わらず。産経大阪杯2着、天皇賞・春が5着、宝塚記念は2着、天皇賞・秋が6着。展開が向けば鋭い末脚を繰り出して突っ込んでくるが、どうしても勝ち切れない。そんなレースを続けるばかりだった。
光が差したのは、2度目の挑戦となったジャパンカップでのこと。またしても“追い込んで届かずの2着”に終わったハーツクライだったが、2分22秒1という驚異的なレコードを叩き出した勝ち馬アルカセットと同タイムで走破してみせたのだ。
ハーツクライのパワーが目覚めた。
この馬の潜在能力を呼び覚ましたのは、天皇賞・秋から手綱を取っていたクリストフ・ルメール騎手だった。ルメールは、ハーツクライに全能力を発揮させるためには、これまでのような追込みではなく、先行策にこそ活路があると考えたのだった。
2005年・第50回有馬記念、相手は無敗のまま三冠を達成したばかりのディープインパクト。この一戦でルメール騎手とハーツクライは好位でレースを進め、直線で抜け出す策を取る。そして、およそ負けることなどないと思われたディープインパクトの猛追を2分の1馬身封じてGI初制覇を果たす。
さらに、明け5歳となったハーツクライはドバイシーマクラシックへと挑戦。ルメール騎手を背に敢然とハナを切ると、欧州年度代表馬ウィジャボードらを4馬身以上も突き放す堂々の勝利を飾ったのである。
大胆不敵な脚質変更。その決断が、ハーツクライを名馬の位置へ導いたのだった。