ストーリー
この馬が、いちばん強い。メジロライアンの鞍上・横山典弘騎手はそう信じていた。
1989年。2歳7月のデビューから11月の初勝利までに4戦を要し、400万下・ひいらぎ賞で2勝目をあげた時にも7番人気に過ぎなかったメジロライアンだが、明けて1990年、3歳になった頃から次第に頭角を表し始める。ジュニアCを力強く差し切り、弥生賞では不良馬場を蹴立てる豪脚で重賞初制覇。横山騎手は「これは3つ全部行けるかも」という手応えを感じるようになった。
3つ全部とは、すなわち、3歳クラシック三冠。だがメジロライアンと横山騎手のコンビは、その三冠レースでことごとく悔し涙を流すことになる。皐月賞は3着、日本ダービーは2着、菊花賞は3着……。
暮れの有馬記念でも2着、オグリキャップの復活劇を引き立てる役に甘んじて、とうとうGIタイトルを獲れぬままに3歳シーズンを終えたのであった。
1991年、4歳春も苦難の連続だった。
圧倒的1番人気で迎えた中山記念では、ユキノサンライズの逃げ切りを許しての2着。さらに体調を崩して熱発、仕上がり途上のまま挑んだ天皇賞(春)では格下と見られた馬にも遅れを取って4着の屈辱を味わった。加えて天皇賞の翌週には、横山騎手が降着・騎乗停止の処分を受ける。
すべてが裏目、負の流れだ。
それに対して同じ“メジロ”を冠に戴くメジロマックイーンは、順調に一流馬への道を歩んでいた。遅咲きだったため皐月賞と日本ダービーは不出走だったが、本格化した秋以降、菊花賞、阪神大賞典、天皇賞(春)と3連勝。第32回宝塚記念でも断然の本命に推されていた。
もし次も負けたら、もう二度とこの馬がいちばん強いとは言わない。悲壮な覚悟とともにメジロライアンと横山典弘騎手のコンビは宝塚記念へと挑んだ。
レースは意外な展開を見せた。
最内1番枠からスタートしたメジロライアンは窮屈なところを走らされ、隣の馬とも接触して前へ行く気をあらわにする。慌てて手綱を抑えようとした横山騎手だったが、一瞬の後、馬の行く気に任せて先行させる手段を選ぶ。3コーナーでは早くも先頭。これまでの追込み策とは一転したポジションだ。
が、結果はこれが奏功する。先頭で直線へ向いたメジロライアンは、そのまま懸命に粘り、最強のライバル・メジロマックイーンを1馬身半完封してGI初制覇を成し遂げたのである。
道中、無理に抑えようとしなかった横山騎手は「こいつと仲良く走ろう」と考えたのだという。いくつもの辛酸をともになめ続けたひとりと1頭が、信頼の絆で結ばれ、そして到達した境地。悲愴さなどとは無縁、むしろ“楽しい”走りが、念願のGIタイトルをこのコンビにもたらしたのであった。