ストーリー
1982年から11年連続で中央競馬リーディングサイヤーの座を獲得し、わが国の競馬史に強くて深い足跡を残した大種牡馬ノーザンテースト。その初年度産駒としてターフを駆け、父の名を高めるのに大きな役割を果たしたのが1977年生まれのアンバーシャダイだ。
とはいえアンバーシャダイは、華やかなエリート街道を歩んだわけではない。幼い頃に負ったケガの影響もあってデビューは明け3歳(現表記)まで遅れ、かろうじて日本ダービー出走にこぎつけたものの結果は9着に敗退。その後もしばらく条件戦を走り、しかも勝ちあぐねる戦いを繰り返した。
そんなアンバーシャダイが突如として本格化を示したのが4歳シーズン。中山の2500m戦を快勝し、ダイヤモンドSでは3着と健闘。東京の芝2300mでレコード勝ちを収め、続く中山のマイル戦も勝利。さらには毎日王冠で僅差の2着となって、古馬戦線における有力馬の1頭として数えられるようになったのだ。
4番人気で挑んだ天皇賞・秋(当時は秋も3200m戦)では僚友ホウヨウボーイの4着に終わったが、まだまだアンバーシャダイの成長は止まらない。堂々の1番人気で迎えた目黒記念(当時は春と秋に実施)を勝利し、遂に重賞初制覇を果たす。こうして勢いと充実ぶりを示しながら向かったのが、この年の総決算・第26回有馬記念だった。
人気は、これが引退レースとなるホウヨウボーイ、その好敵手で天皇賞2着のモンテプリンス、そしてアンバーシャダイの順。ここでアンバーシャダイはまさに成長の総決算ともいえる走りを披露する。
有終の美を飾ろうと懸命にゴールを目指すホウヨウボーイ、これと叩き合うモンテプリンス、有力2頭を一気に交し去り、さらに2馬身半突き放すという豪快なレースを見せてアンバーシャダイは自身初のビッグタイトルを獲得。ホウヨウボーイから厩舎の後継エースの座を託されることになったのだった。
翌年の5歳時は、初戦のアメリカジョッキークラブカップこそ楽々と制してグランプリホースの貫禄を示したものの、アルゼンチン共和国杯では2着、天皇賞・春はモンテプリンスの2着、天皇賞・秋はメジロティターンの5着と敗れ、有馬記念もヒカリデユールに差されての2着惜敗に終わる。
が、やはりまだまだアンバーシャダイは終わっていなかった。6歳初戦として走ったアメリカジョッキークラブカップを勝利して同レース連覇を飾ると、アルゼンチン共和国杯2着を挟んで第87回天皇賞・春へ。ここでふたたびアンバーシャダイは底力を見せる。前年の菊花賞馬ホリスキーと壮絶な競り合いを演じ、差し返す根性まで見せての盾獲りを果たしたのだ。
さらにアンバーシャダイは種牡馬となってからもメジロライアンらの強豪を数多く送り出し、自身と父ノーザンテーストの名声を高めていくことになるのだった。