ストーリー
元号が昭和から平成へと変わった1989年。ターフではオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンらが好勝負を演じ、武豊をはじめとするヤングジョッキーたちが躍動。第二次競馬ブームが訪れようとしていた。
そんな中、7月の小倉芝1000mの新馬戦でハクタイセイはデビューする。父は第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコー。だが、ハクタイセイの初戦は3番人気。勝ったハギノハイタッチから4馬身離された2着という目立たないものだった。
その後もハクタイセイは2戦目が4着、3戦目が6着、ダートに戦場を移した4戦目が2着と勝ちあぐねる。先行して崩れない安定感はあったものの、勝ち切れないもどかしさ。ようやく5戦目、京都のダート1400mを逃げ切って初勝利をあげたのは10月28日。ファンは翌日に迫った天皇賞・秋の予想に懸命で、ハクタイセイの勝利がクローズアップされることはなかった。
ところが、ここからハクタイセイ怒涛の快進撃がスタートする。
400万下(当時)条件のダート1200m戦も逃げ切って連勝を飾り、再び芝へと戻った2000mのシクラメンSはインターボイジャーに競り勝ってのオープン勝ちだ。
年明け初戦は若駒S。例によって先行したハクタイセイは1番人気ダンディスピリットを下してみせる。続くきさらぎ賞は不良馬場での開催となったが、ダートで勝っているようにパワー勝負に不安のないハクタイセイ。阪神3歳S(当時)の覇者コガネタイフウや素質馬ナリタハヤブサといった強敵をねじ伏せ、なんと5連勝をマークする。
こうしてハクタイセイは朝日杯3歳S(当時)の勝ち馬アイネスフウジン、弥生賞を差し切ったメジロライアンと2着ツルマルミマタオー、スプリングSのアズマイースト、毎日杯のキーミノブらと並ぶクラシック有力候補として注目されるようになったのだった。
迎えた第50回皐月賞。フタバアサカゼの逃げを積極的に追いかけたアイネスフウジンが早めに先頭へと並びかける。中団にいたハクタイセイも押し上げにかかり、後方待機のメジロライアンも進出を開始。ゴール前では押し切ろうとする1番人気アイネスフウジン、差し脚を伸ばす3番人気ハクタイセイ、馬ごみから抜け出してきた2番人気メジロライアンという態勢だ。最後はハクタイセイがクビ差アイネスフウジンを交わして優勝。6連勝を飾るとともにクラシック第一冠を手中にしたのだった。
だが、ハクタイセイは日本ダービー5着の後、屈腱炎を患い、復帰を目指して調教ペースを上げたところ再発。そのまま引退を強いられる。種牡馬としても代表的な産駒を残せず、13年10月28日、初勝利をあげた思い出の日に腸閉塞でこの世を去る。
まるで皐月賞を勝つためだけに生き、6連勝で燃え尽きた生涯だった。