ストーリー
JRAの競走に限れば、アグネスワールドはG2とG3を各1勝しただけに過ぎない。だが胸には、その実績以上の勲章が確かに輝いている。
まずは1997年のデビュー当時。後に重賞ウィナーとなるマイネルクラシックやエモシオンを相手に5馬身差の圧勝で新馬勝ちを飾ったアグネスワールドは、続く函館3歳Sもレコードタイムで勝利。朝日杯3歳Sこそグラスワンダーの4着に敗れたものの、矛先を公営・川崎でおこなわれるダートの全日本3歳優駿へと向けると、ここを2馬身半差で制する。2着に負かした相手は、後に川崎記念を勝つインテリパワーである。
芝で速く、ダートで強い。父は稀代の快速血統として知られる種牡馬Danzig、母の父は米三冠馬Seattle Slew、兄はスプリンターズS勝ち馬ヒシアケボノ。血統に恥じない走りで、アグネスワールドは世代トップクラスの存在として認識されるようになっていった。
骨折のため翌1998年シーズンのほとんどを棒に振り、復帰後の1999年もガーネットS6着、淀短距離SとシルクロードSが2着、高松宮記念が5着、安田記念は8着と勝ち星に恵まれなかったアグネスワールド。が、夏に入ると一気に本領を発揮し始める。
北九州短距離Sは4馬身差の逃げ切り勝ち。しかも芝1200mの日本レコードとなる1分6秒5という驚異的なタイムまで叩き出してみせた。小倉日経オープンも楽々と勝利すると、秋はフランスへと渡り、芝1000mのG1アベイ・ド・ロンシャン賞を制覇。シーキングザパールやタイキシャトルがこの前年に海外G1を勝利していたが、それに続いて「日本調教馬強し」と欧州に印象づけた快挙である。
勇躍日本へ帰国すると、当時は秋におこなわれていたCBC賞でも1着。高松宮記念の勝ち馬マサラッキを完封する逃げ切りで、4連勝を達成する。アグネスワールドにとって最良の1年といえただろう。
2000年シーズンにも、アグネスワールドはまた大仕事をやってのけた。
前年暮れのスプリンターズSでは2着、高松宮記念は3着と栄冠に届かなかったアグネスワールドだが、「ならば」と、ふたたびの海外遠征を敢行。遠征初戦のG2キングズスタンドSでは2着に甘んじたものの、大目標だったG1ジュライCでは力強い走りで勝利、2つ目の海外G1タイトルを手にしたのである。
前述の通り、残念ながら国内G1は未勝利。グラスワンダー、マサラッキやシーキングザパール、ブラックホークやキングヘイローなどライバルが強すぎた感もあり、2000年のスプリンターズSではダイタクヤマトの大駆けを許すなど運のなさもあったろう。
だが、有無を言わさぬ逃げ脚で、何度もレコードを叩き出し、海外に名を知らしめたアグネスワールドの走りは「日本最速」と呼んでも過言ではないはずである。