ストーリー
今や「日本最強」クラスの馬が誕生するたびに語れる海外遠征。しかし、一時は挑戦する馬すら少なく「海外G1制覇」など夢のまた夢という時代も長かった。そんな時代を経て、日本調教馬として初めてそれを現実のものとしたのが、98年にモーリス・ド・ゲスト賞を制したシーキングザパールだ。
シーキングザパールのデビューは96年。小倉芝1200mの新馬戦を快勝したものの、新潟3歳S(当時)は出遅れて3着。続くデイリー杯3歳Sは好位から抜け出し5馬身差で初重賞制覇を飾ったが、1番人気に推された阪神3歳牝馬S(当時)はメジロドーベルの4着に敗退。気難しい面があり、安定してその実力を発揮できずにいた。
しかし翌97年はシンザン記念を快勝すると、森秀行厩舎に転厩してフラワーCも制覇。当時は外国産馬に桜花賞への出走資格がなかったためNHKマイルCに目標を定め、その前哨戦のニュージーランドT(当時1400m)まで重賞3連勝を記録した。
牝馬ながら重賞で牡馬を3度も破っていたシーキングザパールは、NHKマイルCでも単勝2.0倍の1番人気に支持される。レースでは道中6〜7番手を追走し、直線坂上で余裕十分に抜け出して2着ブレーブテンダーに1馬身4分の3差をつける快勝。2歳時の不安定さを一層し、短距離路線では「敵なし」を印象づけた。
ところが、秋初戦のローズSで3着に敗退すると、「喉頭蓋(こうとうがい)エントラップメント」という奇病を患い休養。翌98年春はシルクロードSこそ制したが、高松宮記念ではシンコウフォレストの4着、安田記念ではタイキシャトルの10着に敗退してしまう。
このころには、「短距離王」といえば重賞6連勝を飾った同期のタイキシャトル。シーキングザパールが夏の海外遠征を発表しても、話題の中心は既に遠征が決まっていたタイキシャトルで、この馬とともに「シーキングザパールも」という、陰に隠れた形での旅立ちとなった。
そんなシーキングザパールが出走したのは、8月9日フランス・ドーヴィル競馬場の芝1300mG1、モーリス・ド・ゲスト賞。翌週にはタイキシャトルのジャック・ル・マロワ賞が控えており、その「露払い」的な見方すらされていた。ところが、ここでシーキングザパールは大仕事をやってのけた。好スタートからすぐ先頭に立つと、後続を寄せつけずコースレコードでの快勝。ファンも驚きの「日本調教馬による海外G1初制覇」を達成したのだ。また、ほとんどのファンが耳にしたこともなかった海外GIの制覇は、チャンスのあるレースならどこへでも遠征する森調教師の真骨頂だといってもいいだろう。
続くムーラン・ド・ロンシャン賞5着で帰国し、国内ではスプリンターズS2着などの実績を残してアメリカへトレード、そして引退したシーキングザパール。このモーリス・ド・ゲスト賞が最後の勝利になってしまったが、後に続々と海を渡る日本馬に勇気を与える輝かしい勝利として競馬史に名を残している。