ストーリー
父は欧州を代表するマイル種牡馬のヌレイエフ。母シルヴァーレーンもフランスのマイル重賞勝ち馬だ。おじには快速で知られたホークスターがいる。
英国生まれの外国産馬ブラックホークの体内には、確かにスピード豊かな血が流れているはずだった。陣営もこの馬を芝マイル戦中心に走らせることにする。
が、脚元がまだ万全ではなかったため順調に調教をこなせず、3歳(現表記)夏からは8か月、4歳夏からは1年以上と、2度にわたって長期休養も経験している。
結局、5歳の夏を迎えた時点で11戦5勝。その間、900万下、準オープン、ダービー卿チャレンジTと3連勝を飾るなど素質の片鱗は見せていた。休養から復帰後もスワンSを制している。が、この時期のマイル路線にはタイキシャトルやエアジハードといった王者がいたこともあり、ブラックホークはブレイクを果たすには至らなかったのである。
5歳秋、復帰4戦目のマイルCSで3着となった直後、1つの慧眼がブラックホークを上のステージへと引き上げることになる。
「この馬はマイルよりスプリント」
かつてブラックホークの手綱を握り、マイルCSでは別の馬に乗って後方からブラックホークの走りを確認した横山典弘騎手が、管理する国枝栄調教師にそう進言したのだ。
陣営も、ブラックホークがスプリンター体型に近づいてきていると判断、こうして久しぶりにブラックホーク&横山騎手というコンビが、1999年・第33回スプリンターズSで実現した。
そのレースぶりは、まさしく強豪スプリンターのものだった。仏G1のアベイ・ド・ロンシャン賞を勝つなどスプリント戦4連勝中のアグネスワールドをピッタリとマークし、直線ではクビ差競り落とすという強い勝ちっぷり。“路線転換”によって、ブラックホークはGIタイトルをつかみ取ったのである。
ところが6歳以降、ブラックホークにふたたびの停滞期が訪れる。初戦の阪急杯こそ貫禄で勝利したものの、高松宮記念では4着、安田記念9着、秋は連覇を狙ったスプリンターズSで3着、マイルCSは8着。
7歳になっても勝ち切れないレースは続き、阪急杯2着、高松宮記念2着、京王杯スプリングCが3着。大きく崩れることは少なかったが、勝利もなく、とうとう連敗は10となってしまった。
このままでは終われないと、意を決して臨んだのが2001年・第51回安田記念だ。前年の勝ち馬・香港の雄フェアリーキングプローン、京王杯スプリングCを差し切ったスティンガー、マイラーズC勝ち馬ジョウテンブレーヴらのいたこの一戦で、ブラックホークは渾身の末脚を発揮する。後方から直線一気、十数頭を交わし去っての追込み勝利だ。
当初の大目標だった「マイルでの頂点」に、生涯最後のレースでたどり着いたのである。