ストーリー
フラワーパークの初出走は3歳(現表記)10月の未勝利戦、新潟の芝1600m(1995年)。デビュー前に2度も骨折したため、始動がこの時期までズレ込んでしまったのだ。しかも結果は5番人気10着という平凡なもの。この馬が後に大偉業を成し遂げることになろうとは、誰も想像できなかったに違いない。
だが11月、同じく新潟のマイルを走った2戦目で初勝利をあげると、そこから一気にフラワーパークは上昇気流へと乗っていく。
500万下の恵那特別を4馬身差で圧勝し、さらに900万下・千種川特別も逃げ切り勝ち。なんとデビューから2か月で3勝をマークしてしまう。
明けて1996年。4歳初戦の石清水Sでは3着に敗れたものの、続くうずしおSで準オープンを突破。陽春S2着の後、シルクロードSでは重賞初挑戦初勝利を果たした。
瞬く間にフラワーパークは、短距離路線の有力馬へと駆け上がっていったのである。
フラワーパークの父はニホンピロウイナー。マイルCSを連覇し、安田記念も制覇して3年連続で最優秀スプリンターに選出された稀代の快速馬だ。そのスピード豊かな血はフラワーパークにもしっかりと受け継がれていた。
またニホンピロウイナーが活躍したのは、ちょうど距離体系が整備され、グレード制が導入された時期。おかげで短距離王の称号を得たニホンピロウイナーは「グレード制の申し子」などと呼ばれたのだが、同じような偶然がフラワーパークにも訪れる。この年から高松宮杯が2000mから1200mに短縮、GIに昇格していたのだ。
初代王者の座を狙って、前年のスプリンターズS優勝馬ヒシアケボノ、同2着のビコーペガサスが出走、加えて三冠馬ナリタブライアンの参戦も話題を呼んだ新生・高松宮杯。フラワーパークは、デビューからまだ7か月にも満たず、GI初挑戦にも関わらず、見事にこの一戦を制してみせた。
2〜3番手を追走していたフラワーパークは、4コーナーで早くも前に並びかけ、そして直線では後続を力強く突き放す。結果は2馬身半差の快勝。懸命に追いすがるビコーペガサスやヒシアケボノ、さすがの末脚で追い込んできたナリタブライアンを封じ込め、レコードタイムまで叩き出して、フラワーパークは春の短距離王の座に就く。
この勝利が勢いだけのものではなかったということを、秋になってフラワーパークはスプリンターズSで証明してみせた。
2番手追走のフラワーパークは、直線に入ると、一歩、また一歩と逃げるエイシンワシントンとの差を詰める。遂に2頭が並んだところがゴール。長い写真判定の末、わずか1cmという競馬史に残る僅差で軍配はフラワーパークに上がった。
スピードだけでなく勝負根性も見せつけて、フラワーパークはスプリント女王の頂へと達したのである。