ストーリー
時代を象徴する名馬の陰には必ず、レースを盛り上げながら当時の競馬を見守り続けてきたバイプレーヤーの姿がある。1990年代・平成の前半、その役割をナイスネイチャやステージチャンプらとともに担っていたのがマチカネタンホイザだ。
最初の仕事は、1991年デビューの同期・ミホノブルボンの走りを後ろから眺めることだった。
府中3歳Sを圧勝し、勇んで向かった朝日杯3歳Sではミホノブルボンの4着。翌1992年春の皐月賞では、やはりミホノブルボンの7着。日本ダービーでは力強く追い込んで4着と健闘したが、ミホノブルボンは8馬身も前にいた。菊花賞ではその差を「アタマ」にまで詰めたものの、逆転には至らず、ライスシャワーの3着に屈する。
クラシックを無冠で終えたマチカネタンホイザだったが、以上4つのGIを皆勤したのはミホノブルボンとこの馬だけだった。
古馬になってからも、マチカネタンホイザは歴史的な一戦をいくつも経験した。
1993年・第107回天皇賞(春)、ライスシャワーが王者メジロマックイーンを突き放したレースで4着。同年のジャパンカップではレガシーワールドの勝利とコタシャーンのゴール誤認を15着から目撃した。暮れの有馬記念は丸1年ぶりのレースを劇的な復活勝利で飾ったトウカイテイオーの4着だ。
1994年にはビワハヤヒデの天皇賞(春)と宝塚記念、そのビワハヤヒデの引退レースとなった天皇賞(秋)を走り、1995年の天皇賞(秋)ではサクラチトセオーの豪快な追い込みを、ジャパンカップではランドに追いすがるヒシアマゾンを目に焼きつけた。
自身は一度もGIを勝てず、連対すらなかった。だがマチカネタンホイザは、まるでスターホースと自分との差を計ろうとするかのように、強豪たちが繰り広げる幾多の戦いに挑み続けたのである。
もちろん、ビッグレースへの参加資格を所有していたのは、マチカネタンホイザ自身が強い馬だったからに他ならない。
1993年、重賞初制覇となったダイヤモンドSではトップハンデを背負いながら後続を3馬身半も突き放した。続く目黒記念ではライスシャワーを破って重賞2連勝の達成だ。
1994年のアメリカジョッキーCCでは、後に海外重賞制覇を成し遂げるフジヤマケンザンを鋭く差し切り、1995年の高松宮記念ではヒシアマゾンを5着に沈めて勝利した。
父はノーザンテースト、母の父はアローエクスプレス、母の母の父はモンタヴァル。いずれも1960〜1970年代に数多くの名馬を生み出した偉大な種牡馬たちだ。そして母系は、皐月賞馬ハードバージや天皇賞馬サクラユタカオーなどを出したスターロッチ系。
いわば昭和という時代の象徴が、マチカネタンホイザの血には凝縮していた。そのことも記憶に残る、名バイプレーヤーである。