ストーリー
「鍛えて最強馬をつくる」。故戸山為夫調教師が執筆し、後に馬事文化賞を重賞した著書のタイトルである。健康な馬に厳しいトレーニングを課せば「名馬」から「最強馬」に。「無事是名馬」を一歩進めた言葉とも言えるだろう。
そんな戸山師のもとでハードトレーニングを課され、皐月賞、日本ダービーの二冠を制したのがミホノブルボンだ。当時、現在ほど広く活用されていなかった栗東の坂路コースでミホノブルボンは好時計を連発し、デビュー前から注目を集める存在となった。
そのデビューは、9月の中京芝1000m戦。出遅れを喫したものの、上がり33秒1という豪脚を繰り出して差し切り勝ち。噂に違わぬ強さを見せたミホノブルボンは、続く500万条件の平場、芝1600m戦も6馬身差で快勝。さらに、朝日杯3歳Sではヤマニンミラクルとの叩き合いをハナ差で制し、重賞初挑戦でG1のタイトルを手中にした。
年が明け、最優秀3歳(旧表記)牡馬のタイトルを受賞したミホノブルボンだったが、この頃から距離不安が囁かれるようになる。父マグニテュードの代表産駒・エルプスはその快足で桜花賞を制したが、オークス、エリザベス女王杯は15、11着に大敗。ミホノブルボンも距離延長に対応できないのではないか、という不安だ。
しかしミホノブルボンは、そんな声をよそに快進撃を続けてゆく。スプリングSでは1800mの距離、そして休養明けを不安視され初めて1番人気を他馬に譲ったものの、先手を奪って速いラップを刻むと、そのまま後続を寄せつけず7馬身差の圧勝を演じたのだ。
続く皐月賞。今度は単勝1.4倍の断然人気に推され、ここも2着ナリタタイセイに2馬身半差をつける鮮やかな逃げ切り勝ち。圧巻の強さで一冠目を制したミホノブルボンにとって最大の敵は、同世代のライバルではなく「距離」である、という声が大きくなっていった。
迎えた日本ダービーは単勝2.3倍。皐月賞を1.4倍で圧勝した無敗馬とは思えない低評価だが、当時のファン心理をよく表していると言えるだろう。そんな中、ミホノブルボンは皐月賞同様にハナを切り、皐月賞を上回る4馬身差の大楽勝。鍛えに鍛えられた「最強馬」が誕生した瞬間であった。
しかし、三冠のかかる菊花賞では名ステイヤー・ライスシャワーの前に2着敗退。ハナを切れなかったことなど敗因はいくつか挙げられたが、後にライスシャワーが春の天皇賞2勝を挙げたことを考えれば、最後の最後に距離適性の差が表れた、とみるのが妥当だろうか。
その後、ミホノブルボンは故障のためターフに復帰できず、名伯楽・戸山師も病に倒れ天に召された。師のもとで更なるトレーニングを積めば、3000m級の距離をも克服できたのか、今も謎のままである。