ストーリー
サクラチヨノオーの競走馬生活には、クライマックスが2度訪れた。
1度目は2歳シーズンだ。もともと、父は伝説の馬マルゼンスキー、母は6勝をあげたサクラセダン、全兄に重賞ウィナーのサクラトウコウがいるサクラチヨノオーは大いに将来を嘱望されていたのだが、その期待に存分に応えてみせた。
1987年夏、函館の1000mで迎えたデビュー戦では単勝1.0倍の断然人気に推され、その数字通りに楽々と3馬身半差で勝利。続くオープンの芙蓉特別も、好位から他馬を軽くねじ伏せて2馬身半差の1着となった。
いちょう特別では不良馬場ということもあってマイネルロジックの2着に甘んじたが、サクラチヨノオーに対する高評価は変わらず、暮れの大一番・朝日杯3歳Sも1番人気で迎える。ここでは逃げたツジノショウグンにクビ差だけ競り勝って、堂々のGIウィナーに輝いたのだった。
翌1988年。シーズン初戦の共同通信杯4歳Sでは、果敢にハナを叩いたミュゲロワイヤルの逃げ切りを許して4着に敗れたサクラチヨノオー。続く弥生賞には関西の雄サッカーボーイが参戦、デビュー以来初めて1番人気の座を明け渡すことになった。
その屈辱を、サクラチヨノオーは勝利で晴らす。先手を奪ってマイペースに持ち込むと、そのまま逃げ切っての1着。トウショウマリオとサッカーボーイの2着争いを2馬身突き放す完勝だった。
ただし本番・皐月賞では、アイビートウコウとキョウシンムサシが作り出したハイペースを早めに捕まえに行った結果、直線でヤエノムテキとディクターランドに差されての3着。最大の武器であるスピード豊かな先行力が逆に「2400mを乗り切れるのか?」という不安を呼んで、サクラチヨノオーは第55回・日本ダービーを迎えることになった。
それが2度目のクライマックスである。
相手はさすがに強力だった。サッカーボーイが、その強烈な差し脚を買われて1番人気。皐月賞馬ヤエノムテキが続き、マイネルグラウベン、メジロアルダン、コクサイトリプルといったダービートライアル上位馬も注目を浴びていた。が、思えば朝日杯3歳Sも弥生賞も、前走敗れてからの勝利。サクラチヨノオーにとってこの日本ダービーは、復権を果たす最高の舞台となった。
レースでは、短距離の逃げ馬アドバンスモアが大逃げを打ってハイペース、仕掛けどころの難しい展開を演出した。これをサクラチヨノオーは冷静に乗り切り、離れた2番手で自分のラップを刻んで、直線で先頭へ。そこから自慢のスピードを全開にする。
メジロアルダンにいったんは半馬身ほど出られたものの、直線驚異的な差し返しを見せて、レースレコードとなる2分26秒3の好タイムを叩き出しての優勝。サクラチヨノオーは鮮やかな復権を果たしたのである。