ストーリー
秋の天皇賞が3200mから2000mに短縮されたのは1984年のこと。当時は否定的な意見も少なくなかったが、その初年度のミスターシービーを筆頭に数多くの名馬がこの2000mの天皇賞を制し、今ではすっかりと定着している。そんな名馬の1頭が、86年にこのレースを制したサクラユタカオーだ。
サクラユタカオーのデビューは84年12月。中山芝1800mの新馬戦を2歳(現表記)レコードで制すると、続く万両賞(芝1800m)も7馬身差で連勝。さらに年明けには、共同通信杯4歳Sで無傷の3連勝を飾り、クラシックの有力候補の1頭に数えられた。
しかし、その後骨折のため春は全休。秋は京都新聞杯(菊花賞トライアル)で始動したが初めて4着に敗退し、続く菊花賞も4着と連敗。マイルに距離を短縮したダービー卿チャレンジT(当時12月)では2着好走を見せたものの、脚部不安で再び休養を強いられることになった。
翌86年、大阪杯で復帰を果たしたサクラユタカオーは、ダービー・菊花賞2着で1番人気に推されたスダホークとの接戦を制し、共同通信杯以来の勝利を挙げる。素質馬がついに復調なると、春の天皇賞へ向け期待は大きくふくらんだ。
ところが、その天皇賞では同じく距離を不安視されたクシロキングが勝利を収める一方で、サクラユタカオーは14着に大敗。さらに、レース後にまたも脚部不安が出て、三度めの休養を余儀なくされてしまったのだった。
そんな度重なる休養を経ても、持ち前のスピードに陰りが見られないことを証明したのが、秋の復帰戦・毎日王冠だった。中団を進んだサクラユタカオーは直線で抜け出すと、名マイラー・ニッポーテイオー、同期の二冠馬・ミホシンザンを下してレコードタイムで完勝。念願のG1制覇へ向け大きく前進した。
迎えた2000mになって3回目の天皇賞(秋)。1番人気こそミホシンザン(2.1倍)に譲ったものの、サクラユタカオーは2番人気で4.3倍。3番人気は10倍を超え、ほぼ2頭の勝負という雰囲気のもとでレースは行われた。
毎日王冠4着のウインザーノットがハナを切り、サクラユタカオーは後ろにミホシンザンを従え4番手を追走。直線入り口ではミホシンザンに並ばれたものの、ミホシンザン・柴田政人の手が激しく動く一方で、サクラユタカオー・小島太は馬なりの手応え。坂にかかって追い出されるとミホシンザンを一気に突き放し、さらに逃げるウインザーノットも楽々と捕らえ、2戦連続のレコードタイム、そしてついにG1タイトルも手中にしたのだった。
その後、ジャパンC、有馬記念連続6着でターフを去ったサクラユタカオー。手にしたタイトルは秋の天皇賞1つにとどまったが、種牡馬としてはサクラバクシンオーを筆頭に名馬を続々と輩出。自身の走り、そして種牡馬としての活躍によって「2000mの天皇賞」の評価を高めた名中距離馬だ。