ストーリー
尾花栗毛の派手な馬体、そして勝てば圧勝というやはり派手なレースぶりで、多くのファンの注目を集めたのが、「テンポイントの再来」とも呼ばれたサッカーボーイだった。
サッカーボーイのデビューは87年夏。芝1200mの新馬戦はトウショウマリオに9馬身差をつける大楽勝。続く函館3歳Sは4着に敗れたものの、京都1600mのオープン特別・もみじ賞は好位から楽々と抜け出し、2着に10馬身差をつけて2勝目を挙げた。
4戦目は、当時牡牝混合で行われていた関西の3歳(旧表記)王者決定戦・阪神3歳S。道中5番手を追走したサッカーボーイは、3コーナーから抜群の手応えで前へと進出。4コーナーで2番手に上がると、直線は後続を離す一方の一人舞台。2着ダイタクロンシャンに8馬身差をつける圧勝でG1タイトルを難なく手中にするとともに、この勝利で最優秀3歳牡馬のタイトルも獲得した。
翌88年、クラシックを目指すサッカーボーイは弥生賞で始動する。しかしここは、前年の朝日杯3歳Sを制したサクラチヨノオーの逃げ切りを許し3着敗退。さらに、飛節炎を発症し皐月賞は回避。当時ダービートライアルとして行われていたNHK杯は4着、1番人気に推されたダービーも15着と、ファンの期待に応えられずに春のクラシックシーズンを終えることになってしまった。
陣営は巻き返しを期し、7月の中日スポーツ賞4歳S(G3・1800m)に出走する。道中後方を追走したサッカーボーイは、上がり33秒台の末脚を発揮。小回り中京では絶望的とも思える位置から、皐月賞馬・ヤエノムテキを豪快に差し切って復活ののろしを挙げた。
さらに函館記念では、シリウスシンボリ、メリーナイスのダービー馬2頭と対決。この強敵相手にも1番人気に推されたサッカーボーイは中団から徐々に進出すると、直線で強豪を一気に突き放し5馬身差。当時としては驚異的な1分57秒8の日本レコードで駆け抜けたのだった。
この勝利で、秋は天皇賞か菊花賞かと話題を集めたサッカーボーイだったが、ねんざのため両レースとも回避。マイルCSへと駒を進めることとなった。ここは休養明けで18キロ増の馬体を不安視されたものの、中団から徐々に差を詰める「勝ちパターン」。直線で末脚を爆発させると、2着ホクトヘリオスに4馬身の差をつけG1・2勝目を挙げたのだ。
続く有馬記念は同期・オグリキャップとの初対決となったが、ゲートで暴れ顔をぶつけるアクシデントがあり4位(スーパークリークの失格により3着)敗退。翌89年はマイラーズCや毎日王冠出走も予定されたが、ともに骨折のため再びターフに姿を現すことなく現役を引退することになってしまった。
しかし、種牡馬としてはナリタトップロード(菊花賞)、ヒシミラクル(天皇賞・春など)といった自身とは違うステイヤータイプの個性派を輩出して成功。09年には孫のマイネルキッツが天皇賞(春)を制するなど、その血は着実に広がりを見せている。