ストーリー
2007年のオークスはローブデコルテが勝利、外国産馬として史上初めてのクラシックウィナーとなった。デビュー3戦目という史上最速のスピードで日本ダービーを制したフサイチコンコルドや、史上初となる「NHKマイルCと日本ダービーの変則二冠」を成し遂げたキングカメハメハは、受胎した母馬が日本へ輸入された後に生まれた子、いわゆる“持込み馬”だった。
いまでこそ外国産馬や持込み馬に広く活躍の場が与えられている日本の競馬界だが、かつては出走できるレースも少なく、高い資質を持ちながらそれを生かす舞台のない時代が長く続いた。
繁殖牝馬シルが、英三冠馬ニジンスキーの子を体内に宿したまま来日、1974年に北海道早来で産み落としたのがマルゼンスキーだ。不幸な時代に圧倒的な快速でターフを駆け抜けて、わずか8戦で伝説となった、不世出の名馬である。
2歳10月、中山・芝1200mの新馬戦で、マルゼンスキーは「大差」のデビュー勝ちを飾る。2戦目は9馬身差で圧勝。3戦目・府中3歳Sこそ2着ヒシスピードとハナ差だったが、これは真面目に走らなかったせいだといわれている。マルゼンスキーを恐れて出走回避が相次ぐ中、レース不成立を防ぐために出走してくれた各馬をタイムオーバーから救うため、スピードをセーブしたというのだ。
その証拠に朝日杯3歳Sでは、ヒシスピードに大差をつけ、1分34秒4のレコードタイムまで叩き出す。明けて3歳初戦のオープンでは2馬身半、5月のオープンは7馬身差で完勝。比肩する者のないスピードでマルゼンスキーはターフを駆けた。
が、当時は持込み馬も外国産馬も、日本ダービー出走を認められていない時代。マルゼンスキーはただ、ヒシスピードにすら適わなかったラッキールーラが勝つ日本ダービーを、黙って観ているほかなかった。
続いてマルゼンスキーは6月の日本短波賞を7馬身差で勝利する。2着はプレストウコウ、後に菊花賞を制する馬である。さらに7月、札幌の短距離Sでは、またもヒシスピードを10馬身突き放し、レコードもマークしての勝利。デビュー以来の連勝を8と伸ばして秋を迎えることになる。
しかしマルゼンスキーは、屈腱炎のため引退を余儀なくされる。外向している脚、それでも示した圧倒的パフォーマンス、「大外でもいい。賞金もいらない。日本ダービーに出させてくれ」と懇願したという鞍上・中野渡清一騎手など、さまざまな伝説を残して、マルゼンスキーは無敗のままターフを去る。
後に種牡馬としてはサクラチヨノオーを、母の父としてはウイニングチケットやスペシャルウィークといったダービー馬を送り出して無念を晴らしたマルゼンスキー。その血は受け継がれ、その最強伝説は、いまなお語り継がれているのである。