ストーリー
昭和末期から平成にかけての3年間、1頭の芦毛馬がターフを沸かせ続けた。その名はオグリキャップ。日本の競馬史上もっとも多くのファンに愛された馬である。
1987年に公営・笠松競馬でデビューしたオグリキャップは、12戦10勝・2着2回の戦績を引っ提げて翌1988年に中央入りを果たした。そこからペガサスSを皮切りに毎日王冠まで重賞6連勝を飾り、天皇賞(秋)では2着、ジャパンカップでは3着、そして有馬記念でGI初制覇と実績を積み上げていく。
同様に公営から中央入りして大活躍した“怪物”ハイセイコーになぞらえて、“芦毛の怪物”というニックネームも定着し始めた。父ダンシングキヤップ、母の父シルバーシャークという地味な血統もファンの共感を誘った。これほどの実力馬でありながらクラシック登録がなかったため3歳三冠レースに出られなかった悲劇性も話題を呼んだ。
タマモクロス、イナリワン、スーパークリーク、バンブーメモリーといったライバルたちにも恵まれて、オグリキャップは、自身を中心とする空前の競馬ブームを牽引する存在となっていったのだった。
スーパークリークやメジロアルダンと壮絶な叩き合いを演じた天皇賞、驚異的な末脚で差し切ったマイルチャンピオンシップ、そこから連闘で挑んだジャパンカップでは世界レコード2分22秒2のクビ差2着、安田記念はコースレコードの勝利……。オグリキャップの行くところすべてにドラマが生まれた。
だがデビューから5歳春の宝塚記念2着まで、実に29戦。一流馬にしては極めて多いレース数をこなしていた。連闘もあり、故障休養もあった。その過酷な競走生活の反動からか、5歳秋の天皇賞では6着、続くジャパンカップでは11着の惨敗を喫する。
「もう終わったのではないか」
ファンのため息に迎えられてオグリキャップは、“ラストラン”有馬記念に出走したのだった。
もっとも感動したレースは何か?そう訊ねられれば多くの人が、この有馬記念をあげるだろう。ジャパンカップに続いて4番人気にまで評価を落としたオグリキャップだったが、懸命の走りを見せる。鞍上には、デビュー4年にして早くも天才の名を欲しいままにし、騎手として競馬ブームを引っ張った立役者・武豊。その手綱さばきに応えてオグリキャップは、ゴムマリと評された弾むようなフットワークを取り戻したのだ。
直線、一気に抜け出したオグリキャップは、メジロライアンの猛追を4分の3馬身退けて1着ゴールを果たす。現役最後の一戦で「もう終わった」はずの馬が実現させた、奇跡の復活劇だった。
スタンド前に戻ってきたオグリキャップを、ため息ではなく、感動の涙とオグリコールが迎える。それは日本の競馬の歴史に、1つの伝説が刻まれた瞬間だった。