ストーリー
1984年の春、サクラスターオーは由緒正しき血を持って生まれた。祖父はシンボリルドルフなどを出したパーソロン、父は日本ダービーと宝塚記念を制したサクラショウリ。4代母はオークスと有馬記念を勝ったスターロツチで、近親には名スプリンターのサクラシンゲキや天皇賞(秋)勝ち馬サクラユタカオーがいる。
スピードとスタミナと底力とが極めて高いレベルで詰め込まれた血統といえるだろう。
当然のようにかけられた期待は大きかったが、その一生は波乱に満ち、傷だらけの競走生活だった。生後間もなく母親を亡くし、育ての親となったスターロツチもサクラスターオーが堂々とターフを駆けるのを待たずに世を去ってしまった。いざデビューしてからも、脚元の弱さに悩まされ、思うようにレースを使えない日々が続いた。
そんな中でサクラスターオーは、前代未聞の大偉業を達成したのである。
まずは皐月賞。弥生賞を勝ったサクラスターオーは2番人気で臨んだ。そのレースぶりは圧巻のひと言。道中は後方グループに位置していたが、3コーナー過ぎからグングンと加速しながら上がってゆき、直線でも豪快に伸びる。そして、コンマ5秒差内に13頭がひしめく大混戦の2着争いからただ1頭、2馬身半も抜け出す完勝でクラシック第一冠を手にしたのだった。
その後、繋靱帯炎を患って日本ダービーには出走できなかったものの、復帰戦となった菊花賞でサクラスターオーは伝説を作る。
2周目の3コーナーから皐月賞同様にマクって出て行き、直線入口では早くも先行勢の直後へ。そこから懸命の脚で抜け出し、差してきたゴールドシチーを2分の1馬身封じてのゴールだ。なんと半年以上もの長期休養を挟んで2つのクラシック・タイトルを獲るという大仕事をサクラスターオーはやってのけたのである。
競馬史に残る存在となったサクラスターオーだったが、その閉幕は実に痛ましく、人々の記憶に残るものとなった。
その年の締めくくり、有馬記念。1番人気に推されたサクラスターオーは、いつも通りの豪快なレース運びを見せた。後方グループから徐々に進出し、2周目3コーナー過ぎでは中団へ。さぁここでスパートだと観衆が固唾を飲んだ瞬間、それは起こった。
左前脚繋靱帯断裂、第一指関節脱臼、競走中止。本来ならすぐさま予後不良となるほどの重症だったが、これだけの名馬、懸命の治療が続けられた。しかし、約半年の後、関係者の努力は実らずサクラスターオーは逝ってしまう。
もし無事だったなら、観客を熱くさせるレースをもっと見せてくれただろう。その卓越したスピードとスタミナを次代に伝えてくれたはず。力強く、華やかで驚異的で、けれども瞬く間に散った桜の花だった。