ヤエノムテキ オグリキャップ世代の中距離名馬

ヤエノムテキ
Photo by Japan Racing Association
性別
出生年月日 1985年4月11日
毛色 栗毛
ヤマニンスキー
ツルミスター
競走成績 23戦8勝
獲得賞金 5億2422万7500円
表彰歴 1990年 最優秀父内国産馬
主な勝鞍 1990年 天皇賞(秋) G1
1988年 皐月賞 G1
厩舎 荻野光男(栗東)
生産者/産地 宮村牧場 (浦河町)
馬主 勝負服 富士
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ストーリー

G1タイトルを手にするには、実力に加えて運も必要だとよく言われる。ヤエノムテキは「抽選突破」そして「代替開催」という運も味方につけて皐月賞を制した。

ヤエノムテキのデビューは明けて3歳(現表記)を迎えた88年2月末で、ダート1700mの新馬戦を7馬身差で楽勝。続く沈丁花賞も2着に大差で圧勝すると、陣営は皐月賞出走を目指し連闘で毎日杯に出走したが、直線でひと伸びを欠き、オグリキャップの4着に敗退。賞金加算に失敗してしまったのだった。

しかし、この年の皐月賞は2勝馬にもチャンスがあり、6分の3の抽選をくぐり抜けたヤエノムテキは、代替開催の東京競馬場・芝2000m1枠1番から出走するチャンスを得た。外枠不利と言われるこのコースで内枠から好スタートを切ったヤエノムテキは、2コーナーを4番手で通過。後続には大きな不利を受ける馬もあった中でスムーズに好位を追走すると、直線では先に抜け出したサクラチヨノオーを一気に差し切り、ディクターランドの強襲もしのいで優勝。数々の幸運を生かし切り、G1ホースに輝いたのだった。

その後、日本ダービーはサクラチヨノオーの4着、そして6月の中日スポーツ賞4歳Sではサッカーボーイの2着に敗れたヤエノムテキだったが、秋は古馬相手のUHB杯、そして菊花賞トライアルの京都新聞杯を連勝。1番人気で菊花賞に出走した。しかし、好位から直線では伸びが見られず、スーパークリークの10着に敗退。続く鳴尾記念(当時G2・2500m)こそ制したもののハナ差の辛勝で、中距離型との見方が広がっていった。

翌89年は中距離路線に的を絞ったヤエノムテキ。春は大阪杯を3馬身半差で制してその適性を証明したかに見えたが、後のG1では秋の天皇賞でスーパークリークの4着に敗退するなど勝てずじまい。さらに、90年春はG2では59〜60キロの斤量との戦い、そしてG1の安田記念、宝塚記念ではオグリキャップ、オサイチジョージが立ちはだかり、5戦してすべて2〜3着。G1で好走という結果こそ残したものの、強豪相手にもはや「脇役」という立場が定着してしまった感もあった。

そんな中で迎えた90年秋の天皇賞は、皐月賞を制した東京芝2000m。東京は距離がやや長かった日本ダービーで4着、夏場の調整に失敗した前年秋の天皇賞も4着、そして春にはマイル戦の安田記念で2着と、条件が悪くても上々の結果を残し続けたコースだった。

4枠7番から好スタートを切ったヤエノムテキは、2コーナーを内の4〜5番手で通過するという、皐月賞を思い出させる走り。距離損なくラチ沿いで4コーナーを通過すると、直線坂下で一気に仕掛け、先に外から動いたオグリキャップを交わして先頭へ。ゴール前では、迫るメジロアルダンやバンブーメモリーも振り切って、得意のコースで見事に2つめのタイトルを手にしたのだ。

続くジャパンCは6着、そして有馬記念は7着で現役生活を終えたヤエノムテキ。気性面を考慮して引退式は行われなかったが、引退レースの有馬記念では馬場入り後に放馬。この有馬記念はオグリキャップ感動の復活レースだったが、「自ら引退式を行ったヤエノムテキ」のことも、欠かせないエピソードとして語り継がれている。

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