ストーリー
G1タイトルを手にするには、実力に加えて運も必要だとよく言われる。ヤエノムテキは「抽選突破」そして「代替開催」という運も味方につけて皐月賞を制した。
ヤエノムテキのデビューは明けて3歳(現表記)を迎えた88年2月末で、ダート1700mの新馬戦を7馬身差で楽勝。続く沈丁花賞も2着に大差で圧勝すると、陣営は皐月賞出走を目指し連闘で毎日杯に出走したが、直線でひと伸びを欠き、オグリキャップの4着に敗退。賞金加算に失敗してしまったのだった。
しかし、この年の皐月賞は2勝馬にもチャンスがあり、6分の3の抽選をくぐり抜けたヤエノムテキは、代替開催の東京競馬場・芝2000m1枠1番から出走するチャンスを得た。外枠不利と言われるこのコースで内枠から好スタートを切ったヤエノムテキは、2コーナーを4番手で通過。後続には大きな不利を受ける馬もあった中でスムーズに好位を追走すると、直線では先に抜け出したサクラチヨノオーを一気に差し切り、ディクターランドの強襲もしのいで優勝。数々の幸運を生かし切り、G1ホースに輝いたのだった。
その後、日本ダービーはサクラチヨノオーの4着、そして6月の中日スポーツ賞4歳Sではサッカーボーイの2着に敗れたヤエノムテキだったが、秋は古馬相手のUHB杯、そして菊花賞トライアルの京都新聞杯を連勝。1番人気で菊花賞に出走した。しかし、好位から直線では伸びが見られず、スーパークリークの10着に敗退。続く鳴尾記念(当時G2・2500m)こそ制したもののハナ差の辛勝で、中距離型との見方が広がっていった。
翌89年は中距離路線に的を絞ったヤエノムテキ。春は大阪杯を3馬身半差で制してその適性を証明したかに見えたが、後のG1では秋の天皇賞でスーパークリークの4着に敗退するなど勝てずじまい。さらに、90年春はG2では59〜60キロの斤量との戦い、そしてG1の安田記念、宝塚記念ではオグリキャップ、オサイチジョージが立ちはだかり、5戦してすべて2〜3着。G1で好走という結果こそ残したものの、強豪相手にもはや「脇役」という立場が定着してしまった感もあった。
そんな中で迎えた90年秋の天皇賞は、皐月賞を制した東京芝2000m。東京は距離がやや長かった日本ダービーで4着、夏場の調整に失敗した前年秋の天皇賞も4着、そして春にはマイル戦の安田記念で2着と、条件が悪くても上々の結果を残し続けたコースだった。
4枠7番から好スタートを切ったヤエノムテキは、2コーナーを内の4〜5番手で通過するという、皐月賞を思い出させる走り。距離損なくラチ沿いで4コーナーを通過すると、直線坂下で一気に仕掛け、先に外から動いたオグリキャップを交わして先頭へ。ゴール前では、迫るメジロアルダンやバンブーメモリーも振り切って、得意のコースで見事に2つめのタイトルを手にしたのだ。
続くジャパンCは6着、そして有馬記念は7着で現役生活を終えたヤエノムテキ。気性面を考慮して引退式は行われなかったが、引退レースの有馬記念では馬場入り後に放馬。この有馬記念はオグリキャップ感動の復活レースだったが、「自ら引退式を行ったヤエノムテキ」のことも、欠かせないエピソードとして語り継がれている。