ストーリー
サンデーサイレンスやブライアンズタイム、トニービンなどが種牡馬として権勢を振るい始める前、1980年代の日本競馬界に君臨していたのがノーザンテーストだ。
11年連続でリーディングサイアーに輝き、天皇賞(春)と有馬記念を勝ったアンバーシャダイ、オークス馬のシャダイアイバーとダイナカール、天皇賞(秋)で皇帝シンボリルドルフを降したギャロップダイナなど、毎年のように重賞ウィナーを輩出。1979年から2006年まで、実に28年間も連続で産駒が勝利を収めたという大種牡馬である。
そのノーザンテーストが送り出した最高傑作の1頭がダイナガリバーだ。
鼻面まで覆う白い大流星は「こういう馬は出世しない」と言われ、評判は必ずしも芳しいものではなかったダイナガリバーだったが、1985年夏に函館でデビューすると、力感あふれる馬体とレースセンスでたちまち注目を浴びるようになったのである。
初戦は2着、2戦目に初勝利、ひいらぎ賞では後の重賞勝ち馬マウントニゾンを倒したダイナガリバーは、明け3歳初戦・初の重賞挑戦となった共同通信杯4歳Sでもマウントニゾンらを一蹴してクラシック有力馬として数えられるようになる。
が、第一冠・皐月賞では10着と大敗。積雪の影響で使いたいレースを使えなかったローテーションの狂いが、ダイナガリバーを“動けなく”させたのだった。
それでも陣営は日本ダービーに向けて懸命に立て直しを図った。なにしろ、ノーザンテーストを日本に導入し、ダイナガリバーを生産した社台ファームにとって日本ダービー制覇は悲願中の悲願。かつて桜花賞馬シャダイソフィアを日本ダービーに挑戦させたほど、どうしても欲しいタイトルだった。
その最大のチャンスこそが、ダイナガリバー。白い顔は嫌われたが、関係者はこの馬が漂わせる風格には惚れ込んでいたのである。
日本ダービーでのダイナガリバーは、完全に元の、食い下がってくるライバルたちを蹴落とす姿を取り戻していた。
バーニングダイナの逃げをスっと好位3〜4番手につけて追走すると、直線ではアサヒエンペラーらを突き放して抜け出す。そのまま力強くゴールまで駆け抜けて、懸命の追込みを見せたグランパズドリームを2分の1馬身封じ込めての1着だ。
鮮やかな復活と文句のないレースぶりを見せつけて、ダイナガリバーは、社台ファーム初、ノーザンテースト産駒としても初となる日本ダービー馬の座に輝いたのである。
さらに秋シーズンもダイナガリバーは、菊花賞がメジロデュレンから2分の1馬身差の2着、有馬記念ではギャロップダイナやミホシンザンらを退けて優勝し、この年の年度代表馬にも選出された。ノーザンテースト時代の、もっとも輝かしい時期を背負って立った名馬だといえるだろう。