ストーリー
菊花賞では毎年、3歳の夏から秋にかけて急上昇してきた晩成型が注目を集める。そして、そうしたタイプが栄冠を勝ち取ることも多い。だが、ヒシミラクルほど極端な例も珍しいだろう。
デビューは2001年、2歳の夏。当初は短距離戦を使われて惨敗続き、後に中距離路線へシフトしたものの結局は7戦0勝の成績で年を越す。明けて2002年、3歳4月にターフへ戻ると、5月、通算10戦目でようやく初勝利をマーク。その後の夏場も休まず使われ続け、500万下で2着、1着、1000万下で3着、3着、1着、初の重賞挑戦となった神戸新聞杯では6着。
安定感は出てきたが勝ち切るまでの底力はない。それがこの時点でのヒシミラクルの姿だった。果敢に菊花賞へ登録、抽せんを潜り抜けて出走を果たしたのだが、すでに16戦を消化。これ以上の上り目を望むのは酷なようにも思われた。
が、ヒシミラクルは上昇する。
第63回菊花賞は、いきなりのアクシデントで幕を開けた。1番人気の皐月賞馬ノーリーズンがスタートと同時に落馬したのだ。
スタンドの悲鳴とどよめきは、4コーナー、そして直線でさらに大きなものとなる。2番人気アドマイヤマックスは後方のまま、逃げた4番人気ローエングリンは失速、6番人気バランスオブゲームはまだ中団だ。3番人気メガスターダムが3コーナーから一気のマクリで先頭に立ったものの、これに合わせて後方から大外を進出、追いすがったのが10番人気のヒシミラクルだった。
同じように仕掛けた5番人気アドマイヤドンを突き放し、遂にはメガスターダムも競り落としたヒシミラクルは、ゴール前で急追してきた16番人気ファストタテヤマもハナ差退けて勝利する。馬単18万馬券、3連複34万馬券の波乱を演出するとともに、菊の大輪を咲かせたのである。
その後、有馬記念は11着に大敗、4歳初戦となった阪神大賞典でも12着に敗れ、中2週で挑んだ産経大阪杯は7着。ヒシミラクルに対して「あの菊花賞はフロックだったか」との声もささやかれ始める。
しかし、またもヒシミラクルは上昇した。
まずは第127回天皇賞(春)。GIウィナーは2頭だけというメンバー構成にも関わらず7番人気に甘んじたヒシミラクルは、この事実に奮起したか、外から堂々の差し切り勝ち。菊花賞以上に力強いストライドで2つ目のGIタイトルを獲得した。
さらに宝塚記念では、シンボリクリスエス、ネオユニヴァース、アグネスデジタル、タップダンスシチーといった豪華メンバーを相手に勝利、地力の確かさをアピールする。
ヒシミラクルの勲章はいずれも、バテそうでバテない息の長い末脚で手にしたもの。そのロングスパートが印象に残る、遅咲きで意外性にあふれるステイヤーだった。