ストーリー
93年の4歳(旧表記)3強といえば、ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、そしてナリタタイシン。それぞれ異なる個性を持っていたが、3頭の中でも抜群の末脚を武器に皐月賞を制したのがナリタタイシンだった。
デビューは92年7月。2戦目の初勝利はローカル福島で、5戦目まで1勝どまり。デビュー3連勝を飾ったビワハヤヒデ、そして2戦目の新馬、500万を連勝したウイニングチケットとは注目度で大きな差がついていた。
そのため、6戦目に格上挑戦したラジオたんぱ杯3歳S(現NIKKEI杯2歳S)では5番人気と評価は今ひとつ。しかし、初めて後方からレースを進めたナリタタイシンは、直線で前の各馬をまとめて交わし重賞初制覇を達成したのだった。
ただ、当時の阪神はパワーを要する馬場で勝ち時計は2分5秒8。レースの上がりが38秒1もかかっていたことに加え、6戦2勝という戦線からも、この勝利でナリタタイシンが一躍「クラシック候補」とはならなかった。
そんな状況の中、年明け初戦に出走したシンザン記念は3番人気。前走で差して結果を出したナリタタイシンは再び控える形で末脚を発揮したが、先行したアンバーライオンを捕らえられずに2着敗退。さらに、後の「3強」の一角・ウイニングチケットと初対決となった弥生賞でも、2馬身離される2着に敗退してしまった。
迎えた皐月賞は、4連勝中のウイニングチケット、6戦6連対のビワハヤヒデから大きく離れた3番人気。クラシック初戦は「3強」ではなく「2強」ムードで迎えていた。レースは、先行したビワハヤヒデ、そして中団から早めに動いたウイニングチケットを前に見て、ナリタタイシンは後方待機。4コーナーでは馬群の外で「2強」が馬体を並べ、人気通りの決着になるかと思われた。しかし、残り200mを切って前の脚色がやや鈍ると、ナリタタイシンの末脚炸裂。これまで2着4回と勝ちきれなかった馬とは思えぬ爆発力で、一歩先に抜け出したビワハヤヒデを鮮やかに差し切って見せたのだった。
皐月賞で「2強」を打ち負かしたナリタタイシンは、「3強」の一角を占める存在となっていた。皐月賞同様、先に抜け出したビワハヤヒデ、ウイニングチケットを直線で追い詰める展開となったが、ダービー初制覇へ向け渾身のムチをふるう柴田政人騎手・ウイニングチケット、そして激しい追い比べを演じたビワハヤヒデにわずかに届かぬ3着という結果に終わった。
そして秋、最後の3強対決となった菊花賞では、肺出血でトライアルを回避した影響があったのか17着と大敗。翌春は2月の目黒記念こそ制したものの、天皇賞でビワハヤヒデの2着に敗れると、その後は故障もあって翌95年の宝塚記念(16着)1戦のみで引退。結局、獲得したG1タイトルは皐月賞1つのみに終わってしまった。
しかし、その皐月賞で見せた末脚はあまりにも強烈なもの。特に前の「2強」にばかり注目していたファンにはまさに「飛んできた」かのような印象を与え、そして今でも強く心に残る一戦になっているに違いない。