ストーリー
今やカテゴリーごとのスペシャリストが幅を効かせる時代だが、長距離重視からの大変革でマイラーにもスポットライトが当たるようになったのは1984年のこと。この恩恵を最も受けた1頭が、その84年に新設のマイルCSを、そして翌85年には春のマイル王決定戦・安田記念を制したニホンピロウイナーだと言われている。そんな父の血を受け継ぎ、安田記念連覇と2000mになった天皇賞(秋)を制したのがヤマニンゼファーだった。
ヤマニンゼファーのデビューは91年。ダート1200mの新馬戦で直線一気の目の覚める末脚を繰り出し優勝、続く500万条件も連勝した。その後は半年あまりの休養もあってやや伸び悩んだものの、翌92年2月に1600万条件を脱出してオープン入り。さらに、京王杯スプリングCでも3着に好走した。しかし、ここまで芝は3戦未勝利。前年のスプリンターズSでダイイチルビーの7着に敗退するなど、G1では一歩「足りない」と見られる存在だった。
迎えた安田記念は11番人気。ニホンピロウイナーとの父子制覇への期待を語るファンはほとんどいなかった。しかし、ヤマニンゼファーは大外18番から好ダッシュを見せると、好位追走から抜群の手応えで4コーナーへ。直線の坂では、前年のマイルCS優勝馬・ダイタクヘリオスを突き放し、外から迫るカミノクレッセの追撃も振り切る横綱相撲で、あっさりとその父子制覇を成し遂げたのだ。
その後、秋のマイルCSは5着、そしてスプリンターズSは勝利目前でニシノフラワーに差し切られ2着惜敗。G1馬としてはやや物足りない成績が続いたが、翌93年の京王杯スプリングCで久々の勝利を挙げ、再び安田記念へと駒を進めた。
ヤマニンゼファーはまるで前年のVTRかのように外枠から好発を決めると、やはり前半は好位に待機。直線では激しい2着争いを尻目に抜け出し、見事に安田記念連覇を飾ったのだった。
マイル戦での実力を存分に見せつけたヤマニンゼファーは、天皇賞(秋)で距離の壁に挑戦する。父・ニホンピロウイナーが85年、ギャロップダイナ、シンボリルドルフの3着に敗れた一戦だ。
その血統や1800mの中山記念4着、毎日王冠6着という結果から5番人気の評価に過ぎなかったヤマニンゼファーだったが、スタミナ不安などないかのような強気の先行、道中3番手。4コーナーで早くも逃げたツインターボに並びかけると、直線は外から迫るセキテイリュウオーとの一騎打ち。激しい叩き合いの末、ハナ差で競り勝ちG1・3勝目、そして父の雪辱を成し遂げた。
84年の大変革がなければ、父ニホンピロウイナーのG1制覇はもちろん、生まれてすらいなかった可能性もあるヤマニンゼファー。父のなし得なかった「2000mの」天皇賞(秋)制覇は、父子2代にわたる変革の「勝者」となった瞬間だった。