ストーリー
今でこそ牡馬相手の中〜長距離G1で活躍する牝馬も珍しくなくなったが、この路線では牝馬がまったく通用しない時代があった。そんな時代、93年の宝塚記念で2着に好走し、後の牝馬活躍のさきがけとなったのがイクノディクタスだ。
イクノディクタスのデビューは89年夏。新馬、フェニックス賞を連勝したものの、その後の成績は今ひとつで、翌年の桜花賞は11着、そしてオークスは9着。早熟な牝馬とみる向きも少なくなかった。
しかし、秋を迎えるとサファイヤSで3着、そしてローズSで2着。さらに、当時4歳(旧表記)限定だったエリザベス女王杯でも4着と好走。同世代の牝馬同士ではトップを争うところまで盛り返してきた。ただ、当時は古牝馬のG1がないばかりか、牝馬限定重賞すら数少なく、グレードもG3まで。今度は「古馬相手」「牡馬相手」という壁が待っていた。
古馬になり、苦戦も予想されたイクノディクタスだったが、3月にオープン特別で久々に勝利を収めると、5月の京阪杯(当時2000m)では鮮やかな差し切りで重賞初制覇。さらに、夏から秋にかけては朝日チャレンジC2着など好走を重ね、G3なら牡馬相手でも勝負になることを証明していった。
そして翌92年も春から調子を上げ、金鯱賞、小倉記念、そしてオールカマーと重賞3勝。さらに毎日王冠では別定G2で2着と健闘し、この年の最優秀5歳以上牝馬に選出された。
ただ、小倉記念はハンデ戦で牝馬ながら57キロ。その活躍と反比例してレース選択の幅は狭くなり、その後はG1戦線で4戦してすべて7着以下。明けて93年も日経賞と大阪杯が6着、春の天皇賞は9着と牡馬一線級を相手に苦しい競馬を強いられ続けることになってしまったのだった。
そんな中で出走したのが93年の安田記念。同じ牝馬のニシノフラワー、シンコウラブリイ、そしてシスタートウショウが1、3、5番人気に推される中、イクノディクタスは14番人気と、この路線でも勝ち負けは難しいとみられていた。ところが、後方を追走したイクノディクタスは馬群を割ってしぶとい末脚を発揮。先に抜け出したヤマニンゼファーには届かなかったが、混戦の2着争いを制し、牝馬の歴代賞金女王の座も獲得したのだった。
そして、勢いに乗って出走した宝塚記念も後方追走から、今度は直線大外を一気の伸び。メジロマックイーンを追うように脚を伸ばして2着となり、中〜長距離G1としては87年ジャパンC3着のダイナアクトレス以来となる馬券圏内の大健闘。続くオープン特別も制し、この年かぎりでターフを去っていった。
G1勝ちは2年後のエアグルーヴ(天皇賞・秋)まで待たねばならなかったものの、「牡馬相手の中〜長距離G1」という非常に厚い壁に風穴を開けたイクノディクタス。当時の賞金女王やJRA賞というタイトルと同等、あるいはそれ以上に、ファンに強い衝撃を与えた宝塚記念の激走だった。