ストーリー
エイシンプレストンは、デビューから間もなく世代トップへと上り詰めた。
1999年、2歳(現表記)11月に迎えた新馬戦こそダイタクリーヴァに4馬身離された2着に終わったものの、2戦目は逆に2着を5馬身も突き放して快勝。さらに朝日杯3歳Sでは、デイリー杯の勝ち馬レジェンドハンターを豪快に差し切って、重賞初挑戦初制覇をGIの大舞台で成し遂げる。
明けて2000年、きさらぎ賞で9着と敗れた後に矛先をマイル路線へと向けると、アーリントンCで競り勝ち、ニュージーランドTを差し切って重賞タイトルを計3つとする。
父は仏2000ギニーなどを勝ったグリーンダンサー、母の父はデューハーストSを制した快速モンテヴェルディで、その父はマイル血統の代表格リファール。母系からも多数の重賞ウィナーが出ている。その血筋からも、エイシンプレストンの名マイラーとしての将来は約束されていたはずだった。
が、期待されたNHKマイルC直前に骨折。この不運が、エイシンプレストンの未来図を大きく変えてしまうことになる。
幸いにも秋にターフへ舞い戻ったのだが、スワンSが6着、マイルCSは5着といずれも惜敗。4歳となった2001年はさらなる不振に陥り、活路を見出すべくダート戦に挑んだりもした。それでも連敗は続く。
再浮上のキッカケは6月のオープン特別・米子Sだった。さすがはGIホースの貫禄、ここで久しぶりの1着となると、エイシンプレストンは勝利の味を思い出し、本来の能力を発揮し始めるようになる。続く北九州記念も1着、関屋記念は3着、毎日王冠を制し、マイルCSではゼンノエルシドには及ばなかったものの2着を確保。
エイシンプレストンは、かつて期待された「マイル路線の主役」としての地位を、1走ごとに取り戻していった。2つ目のGI勝利も間もなくのことだと思われた。
結局エイシンプレストンが生涯に獲得したJRA−GIは、朝日杯ただ1つ。それどころか、毎日王冠以降は国内重賞未勝利に終わっている。代わりにエイシンプレストンは、遠く香港で輝いた。
まずは2001年、香港マイル。人気を集めたのはゼンノエルシドだったが、強いレースを見せたのはエイシンプレストン。なんと2着を3馬身以上も突き放す完勝で、海外G1初制覇を達成する。
翌2002年春にはクイーンエリザベス・世Cへ挑戦するため、ふたたび香港へ。初めて経験する2000mのレースだったが、アグネスデジタルに競り勝って優勝を飾る。
2003年にもクイーンエリザベス・世Cを走り、1番人気に応えて連覇を果たしてみせた。
馬場が向いたのか、それとも国内に収まり切らない血統だったということなのか。エイシンプレストンは、香港では比類なき強さを示す超個性派として活躍したのである。