ストーリー
あまたいる「牝馬G1馬」の1頭から「砂の女王」へ。ホクトベガがダートを舞台に活躍したのはわずか1年ほどだが、歴史とファンの記憶にその名を刻み、今もさんぜんと輝きを放っている。
ホクトベガのデビューは93年。3戦2勝で挑んだフラワーCで重賞初制覇を果たしたが、春の二冠はベガの前に5、6着。秋はクイーンS2着、ローズS3着を経て、当時4歳(旧表記)限定だったエリザベス女王杯へと駒を進めた。
1番人気はローズSまで3連勝中のスターバレリーナ、そして2番人気にはオークス以来の休養明けとなる二冠牝馬・ベガが推され、ホクトベガは9番人気の低評価にとどまっていた。しかし中団追走から直線で内を突いたホクトベガは抜群の伸び。先に抜け出した後のマイル女王・ノースフライトを競り落とし、見事にG1タイトルを手中にしたのだった。
こうしてG1馬となったホクトベガだったが、その評価は決して高いものではなかった。「ベガはベガでもホクトベガ」。テレビ中継での名フレーズだが、当時のこの馬の立場をよく表している一節、とも言えるだろう。翌94年には札幌記念こそ制したものの、この時点では「牝馬G1馬の1頭」に過ぎなかったのだ。
そんなホクトベガに転機が訪れたのは95年。この年から中央馬にも解放された川崎競馬場の牝馬重賞・エンプレス杯だった。抑えきれない手応えで好位を追走したホクトベガは、2週目向正面で先頭に立つと後続を引き離す一方の大楽勝。2着になんと3.6秒もの大差圧勝を見せたのだ。
その後は再び芝に戻り、ダート本格参戦は96年からとなる。その初戦は、エンプレス杯と同じ川崎2000mの川崎記念。2着の愛知・ライフアサヒに5馬身差、3着には第1回ドバイワールドCへの遠征を控えていたライブリマウント。牡馬の強豪を下し、「砂の女王」へ向けて大きな一歩を踏み出したのだった。
続くフェブラリーS(当時G2)は、約2年ぶりとなる中央でのダート戦。しかしここでも力が違うとばかりに、3コーナー過ぎに先頭へ。そのまま直線も降りしきる雪を切り裂く独走、中央のファンにもこの馬の強さを改めて証明した一戦となった。
その後は帝王賞、南部杯などダート路線で遠征を重ね連戦連勝。この馬の強さをひと目見ようと、各地の競馬場に数多くのファンが足を運んだ。特に川崎競馬場ではエンプレス杯と川崎記念連覇で計4勝。中央馬ながら、スパーキングレディーCに「ホクトベガメモリアル」の名を残している。
97年、その川崎記念をステップに挑んだのは第2回ドバイワールドC。全国の競馬ファンが大きな期待を持ってラジオに耳を傾ける中でゲートが開いた。そして、ナド・アルシバ競馬場、第4コーナー。「砂の女王」は砂に斃(たお)れ、異国の地で天に輝く織姫となる。