ストーリー
ベトナム戦争の終結、為替変動相場制への移行、オイルショック、巨人のV9、ベビーブーム……。1973年の出来事は、若いファンには遠い「歴史」としてのみ知られるものばかりだろう。
この年、トウショウボーイが誕生する。
若い頃は腰の甘さが解消されず、2歳暮れになってもデビューの適わなかったトウショウボーイ。だが、父はランドプリンス、キタノカチドキ、テスコガビーといったクラシック・ウィナーを送り出し、1974年にはリーディングサイアーに輝いたテスコボーイ。母はソシアルバターフライで、この配合は“奇跡の血量”と呼ばれた3×4というハイペリオンのインブリードを作り出していた。兄トウショウピットは重賞2勝、姉ソシアルトウショウはオークス2着と活躍した。
やがてトウショウボーイは、その血統、雄大な馬格、調教で見せた抜群の動きなどが評価され、次第に注目を集め始めるのだった。
トウショウボーイは、1976年、3歳(現表記)1月のデビューからいきなり素質を爆発させた。
新馬戦は3馬身差、2戦目は4馬身差、3戦目は5馬身差と、圧倒的なパフォーマンスで3連勝を飾ると、1番人気テンポイントを5馬身突き放して皐月賞を制覇、瞬く間に世代ナンバー1の座へと上り詰めるのだ。
日本ダービーではクライムカイザーの強襲に屈して2着、札幌記念では古馬グレートセイカンにクビ差の2着と敗れたものの、神戸新聞杯ではレコードタイムでクライムカイザーへの雪辱を果たし、京都新聞杯でもクライムカイザーを封じ込めた。菊花賞ではグリーングラス、テンポイントに次ぐ3着に甘んじたが、暮れの有馬記念ではテンポイントに1馬身半の差をつけ、レコードタイムも叩き出しての勝利を飾る。
その圧倒的なスピードと地を這うような走行フォームから、いつしかトウショウボーイは“天馬”と呼ばれるようになったのだった。
トウショウボーイは、翌1977年も快進撃を続けた。久しぶりの実戦となった宝塚記念でテンポイントをねじ伏せ、高松宮記念では62kgという斤量を背負いながら2馬身半差の完勝、マイルのオープン戦では1分33秒6という驚異的なレコードを叩き出し、2着に7馬身もの差をつけて圧勝してみせる。
そして、道悪の3200mという不得手な条件下の天皇賞(秋)で7着と敗れた後、引退レースとしてトウショウボーイが選んだのが、あの伝説の一戦・第22回有馬記念だ。
何としてでもトウショウボーイを破って真の日本一となり、海外遠征に弾みをつけたいテンポイント。これを真っ向から受け止めるトウショウボーイ。他の馬など眼中にない2頭は、スタートからゴールまで抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。
2着に敗れたトウショウボーイだったが、その名を「歴史」に刻み込む、堂々のマッチレースだったといえるだろう。