ストーリー
有馬記念というレースに、スピードシンボリほど愛された馬はいないだろう。いや、生涯に走ったレースが国内外あわせて43戦と、歴史的名馬にしては多いと感じられる数字を見れば、競馬そのものに愛されていたようにも思える。
1966年春。京成杯を勝ったものの、皐月賞21着、日本ダービー8着と結果を残せなかったスピードシンボリ。だが菊花賞で人気薄ながら僅差の2着に追込み、以後は長距離路線の中心的存在として7歳(現表記)の暮れまでタフに走り続けることとなる。
スピードシンボリの父はロイヤルチャレンジャー。イギリスで10戦4勝の成績を残した馬だが、ミドルパークS以外にビッグタイトルはなく、種牡馬としても目立った実績はない。いっぽう母はスイートイン。こちらも2勝で終わった牝馬である。
特筆することのない血統だからこそ、ここまでのタフさを身につけたのかも知れない。
いったん軌道に乗ると、そこからのスピードシンボリの活躍は目覚ましかった。
1967年は、AJC杯を皮切りに、目黒記念、天皇賞・春、日本経済賞と4連勝をマーク。世界制覇を目指して挑んだ米ワシントンDC国際でも5着と奮闘した。
翌1968年、春シーズンこそ調子が上がらず連敗を続けたが、秋にはアルゼンチンJC杯を含む3連勝を果たしてみせた。
1969年には目黒記念とダイヤモンドSを連勝し、海外への再挑戦も敢行した。結果こそキングジョージ5着、ドーヴィル大賞典10着、凱旋門賞でも惨敗と失意に沈んだが、当時としては画期的な欧州遠征だった。
1970年には初戦のAJC杯を制し、宝塚記念ではレコードタイムを叩き出す。
丸4年にも渡って国内でトップを張り、積極的に海外へも打って出た。他に例を見ないほど長期間に渡って活躍した、不世出の名馬といえるだろう。
とりわけ印象深いのは、5年連続の出走を果たした有馬記念での雄姿だ。
1966年・第11回のレースでは、6番人気ながら3着と大健闘。翌1967年、二度目の挑戦となった第12回ではカブトシローの4着に敗れたが、この年の年度代表馬に選出された。不良馬場となった1968年・第13回は、道悪得意のリュウズキに敗れての3着。それでも、このレースにスピードシンボリが欠かせない馬であることを再認識させたといえる。
そして1969年・第14回。海外遠征の成績が冴えなかったため人気を6番手に落としていたが、菊花賞馬アカネテンリュウ、日本ダービー馬ダイシンボルガードを押さえて念願の初制覇を達成。5年目、ラストランとなった1970年・第15回ではまたもアカネテンリュウを退けて史上初の有馬記念連覇を成し遂げた。重賞通算12勝という数字も、いまなお中央競馬タイ記録として残っている。
まさにタフ。衰えを知らぬ名馬だった。