私の競馬はちょっと新しい
第25回 タレント 六車奈々さん
- 「みんなで語り合うことが、競馬の一番の楽しさだと思います」
- 1973年生まれ、京都府出身。15歳でモデルとしてデビュー。96年夏からJRA「ターフトピックス」のリポーターをつとめたことをきっかけに競馬と出会う。02年から現在まで関西テレビ「サタうま!」に出演。ほかにサンケイスポーツ紙面でコラム「奈々の第六感」を執筆するなど、各メディアで活躍中。
マヤノトップガンの天皇賞にしびれて競馬のめり込む
市丸:それでは、よろしくお願いします。まず、競馬に興味を持たれたきっかけから教えていただけますか。
六車:きっかけは「ターフトピックス」のリポーターのオーディションに受かったことです。それまでは競馬の「け」の字も知らず、あまり興味もなかったのですけれど……。
市丸:それはいつごろになりますか?
六車:マヤノトップガンが宝塚記念を勝ったあとの小倉からですね。福永祐一騎手や高橋亮騎手、細江純子さんなどがデビューされた年です。
市丸:マヤノトップガンの宝塚記念というと……、平成8年。96年ですから、今年で15年めになりますか。競馬をあまりご存じないところから入られて、最初はいかがでしたか?
六車:最初はイヤでイヤで仕方なくて……。朝、すごく早いじゃないですか? ふだんなら「まだ飲んでる」という時間に起きないとダメですし(笑)、寒いし、それに競馬用語も外国語みたいで、はじめは「仕事としてこなす」という感覚でやっていたのを覚えています。
市丸:その最初はイヤだった競馬の仕事を、もう15年も続けるようになった理由というのは……。
六車:次の年の春に、マヤノトップガンの天皇賞(97年春)を見て「しびれて」しまい、それからはまりました。
市丸:ゴール前でマヤノトップガンが一気に差し切った年ですよね。
六車:そうです。前の年に、マーベラスサンデーが(休養から)戻ってきて、わたし、勝手に「同期」と思っていたんです。ただ、サクラローレルやマヤノトップガンには勝てなくて……、あの3強の戦いがすごく好きだったんですね。それで、あの春の天皇賞はサクラローレルの海外遠征が決まっていて、もうマーベラスサンデーとマヤノトップガンにとってはサクラローレルを負かす最後のチャンスだったんです。サクラローレルは休養明けで、マーベラスサンデーもマヤノトップガンもひと叩きしていましたし……。
市丸:実際にレースでも直線で一度は先頭に立つようなところがありましたよね。
六車:思ったよりも前の位置にいたサクラローレルに、マーベラスサンデーがついていって2頭で早くから抜け出して……。直線で「これは(マーベラスサンデーが)行けるかも」というところから、サクラローレルが差し返して「やっぱりサクラローレルは強いか」と思ったら、「もう届かないよ〜!」と思うほど後方にいたマヤノトップガンが、外からものすごい脚で差し切ったのを見て、「なんて馬なんだ」と、レースを見てはじめてしびれました。でも、一番強い競馬をしたのは、サクラローレルだったんですよね。これで「競馬っておもしろい」と思いましたね。
市丸:「ターフトピックス」では、多くの関係者の方にインタビューをされています。
六車:そうですね。河内さん(河内洋調教師)には、よくすっぽん鍋に連れて行っていただきました。それで、メジロブライトで天皇賞を勝たれたとき、「もう肩がもげてもいい」と思いながら追っていたお話しを聞いて感動したり。石橋さん(石橋守騎手)にもかわいがっていただきましたね。
市丸:そのころ、馬券もよく買われたのですか?
六車:毎週何人もの方にインタビューをすると、気持ちが揺らいでしまうんです。それでお話しを聞いた馬の複勝とかばかり買っていて、「競馬はあかんわ、儲からへんわ」って思ってました(笑)。
- JRA公式データの充実度はそのまま!なのに、携帯画面でも見やすい!
- 基本情報からお役立ち機能、お楽しみ要素までしっかりご用意しています