私の競馬はちょっと新しい
第7回 ノーザンファーム空港 調教主任 犬伏健太さん
- 「競走馬の育成は経験の積み重ねです」
- 1973年生まれ、大阪府出身。大学卒業後にノーザンホースパークに就職。現在はノーザンファーム空港の調教主任として競走馬の育成に携わる。昨年はオウケンブルースリが菊花賞を制するなど、活躍馬を続々と輩出中。
馬に乗ってみたいという漠然とした願望があった
市丸:それでは、よろしくお願いします。まずは……、ご出身はどちらになりますか?
犬伏:生まれは大阪でした。それからあまりたたないうちに佐賀県の伊万里市というところに……。
市丸:えっ! わたし佐賀県の嬉野というところの出身で……。
犬伏:えっ、近いですね(笑)。それから京都の立命館大学へ行って、そこで馬術部に入ったのがこの世界に入るきっかけでした。
市丸:卒業されてすぐノーザンファームに?
犬伏:そのころはノーザンホースパークで競走馬部門をやっていたのですけれど、今は(ノーザンファームの)空港牧場です。
市丸:わたし、高校まで競馬は「まったく」だったのですけれど、あのあたりは競馬不毛の地ですよね。でも、高校のころから馬には興味を持たれていたのですか?
犬伏:動物好きなので、小さいころから馬に乗ってみたいという、漠然とした願望とか、あこがれのようなものはありました。でもなかなか機会がなくて、初めて乗ったのは中学の修学旅行で阿蘇の草千里に行ったときでしたね。観光乗馬で。
市丸:草千里にはありますよね。そのときの感想は……。
犬伏:観光乗馬ですから、引っ張ってもらって、というのはちょっと物足りないところもありましたけれど、目線の高さは想像以上で……。景色も良いですし、すごくいい気分でした。
市丸:それから騎手を目指そうというのは?
犬伏:いえ、それはなかったですね。でも大学へ行って馬術部に入って、初めて(物事に対して)「はまった」んです。馬術部時代の成績はあまり良くなかったんですけれど、すごくはまりました。
市丸:大学の馬術部というのは、日々どのような活動をされているのですか? あと馬が何頭いるとか、あまりイメージが沸かないのですけれど……。
犬伏:わたしがいたときで20頭近く、部員も当時20人くらいでしたね。ただ、わたしの代は入ったときに13人、最後は4人になってしまいました。
市丸:そんなに減ってしまうものですか。
犬伏:当時は朝からともかく練習があって、6時とかから始めるんです。それで一応、授業が始まるまでっていうことになっているのですけれど、そのまま厩舎にだらっと……。馬術部の学生って大学に行かないんですよ(笑)。
市丸:そうなんですか!(笑)
犬伏:わたしも単位ぎりぎりで取るのに必死でしたけれど、(馬の世話だけではなく)活動費のためにアルバイトをしなくてはいけないとか、一般的な大学生活とはまったく違って、今の時代にはそぐわないというか……。
市丸:動物相手のことですから、時間の自由もあまりないですよね。
犬伏:そうですね。拘束時間が長いので……。それから3回生から4回生となってくると自分の担当馬ができて、毎日その馬に乗って競技に出て。あとは、自分のチームに所属している下級生を乗せて練習を見たり。
市丸:飼葉をつけたりも……。
犬伏:今はやっていないかもしれませんが、2人で泊まり込んでいましたね。生き物ですから、誰かが近くにいないとトラブルに対応できないので。それで2人で酒飲んで……、あともう2人くれば麻雀ができるぞ、と(笑)。
市丸:馬術というと障害を飛んだり……、ということですよね?
犬伏:障害を飛越する「障害馬術」と、馬を美しく動かす「馬場馬術」、あとその2つにクロスカントリーなどを含めた「総合馬術」があるのですが、私が大学で出場していた競技は、「障害」と「馬場」でした。
市丸:障害ってどのくらい乗れば飛べるようになるものですか?
犬伏:個人差もありますし、回数っていうのは……。ただ、基本的な「馬を動かす」という部分は想像以上に難しいものでした。イメージしていたのは「蹴っとばしたら前に進む」「引っ張ったら止まる」「左に引っ張れば左に進む」「右に引っ張れば……」と。確かにその通りなんですけれど、それを上手に、というのが。年間で300日乗って……、いや、もう少し前かもしれませんが、100鞍、200鞍は乗らないと。それで最初は50〜60cmくらいの低い障害からはじめて、学生でも最終的には120cmくらいの障害が飛べるくらいまではやりますね。
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