DataLab.(データラボ)第20回 服助、実況服助PRO
- 「服色のデータを集めるのには苦労しました」木下彰
- 昭和30年生まれ、長野県出身。オフコンの時代からシステム開発を担当。その後、自作の予想ソフト開発(非公開)などを経て、勝負服をイラスト表示する「服助」を公開。さらに溝渕氏の協力のもと、実況現場での利用にも耐える「実況服助PRO」を開発する。
- 「『服助』の存在を知りすぐに木下さんへ電話をしました」溝渕信
- 昭和38年生まれ、北海道出身。STVラジオのアシスタントディレクター、ディレクターを経て、現在は競馬中継の実況も担当する。実況デビューした頃に「服助」の存在を知り、木下氏とともに「実況服助PRO」を開発。
インタビュー記事 インタビュアー/市丸博司(2008/9)
「物まね」をきっかけに放送業界へと進む
市丸: それでは、今度は溝渕さんのプロフィールからうかがえますか?
溝渕: 昭和38年生まれです。
市丸: ずっとこちら(北海道)で?
溝渕: そうですね。生まれは札幌で、その後あちこちを……、オホーツクの方に住んだこともありました。
市丸: 放送業界に入るまでの経緯は……。
溝渕: 最初は、番組の公開放送に来て「わーっ」て言ってる奴(笑)。70年代とか80年代、チェッカーズとかラッツ&スターとか、毎週いいゲストが来る「サンデージャンボスペシャル」というラジオ番組があって……、松山千春さんがデビューした番組なんですけれど、これに毎週のように見に行って。その頃は写真も今のようにうるさくなくて、カメラを買って写真撮ったりしてました。
市丸: 今はカメラはすぐに止められますよね。そうすると、最初は見る側だったわけですね。それからは……。
溝渕: 技があったんですよ、「物まね」という。素人参加のオーディションに出場してから、その番組のレギュラーコーナーに出たり。高校生の頃、学校に行かないでテレビに出ていたら、後で先生に「具合悪いって言ってたのにテレビ出て!」とか「お前、東京行ってたのか!」とか(笑)。
市丸: それは怒られますよねえ(笑)。
溝渕: そんなので放送局に出入りしていた縁があって、その後アシスタントディレクターから、ディレクターになりました。
市丸: 「話す」方は本職ではなかったのですね。
溝渕: ただ、そういう経験があったので「何かしゃべらせたらどうなんだ」という話になって、最初は深夜番組で「謎の人物」みたいな感じで出てました(笑)。
市丸: それから競馬実況まで担当するようになったのは?
溝渕: 競馬のコーナーがあったんですよ。磁石にくっついて馬が動くゲームを使って、あれを実況するんです。いろんなアナウンサーの物まねで。
市丸: 物まねなんですね(笑)。たとえば杉本さんとか……。
溝渕: (物まねで)「おっと1頭出遅れ…」「外からヤエノムテキー!」とか。いろいろな方のをやらせて頂いたのですが、それで「裏方よりしゃべらせたらどうだ」って話になったらしいんです。最初は「野球関係は?」ということだったのですが、得意じゃないので、今度は「競馬はどうだ」と。競馬は好きでしたから、それで。
市丸: 趣味としての競馬はいつ頃からですか
溝渕: 担当した番組の中に競馬中継が入っていたので。それまでは全然で、親父が競馬好きで札幌競馬場に行っていたくらいでした。自分は20代になって、シンボリルドルフとか、ダイナガリバーとか。
市丸: 実際に実況でデビューされたのは?
溝渕: 修行期間が3〜4年ありました。こちらではあまり開催がないので、道営(競馬)に行ったり、中央の札幌・函館開催があれば、先輩達が実況している横で練習したり。20代の半ばくらいから練習して、デビューしたのは30手前でしたね。
実況デビューされた頃は、やはり「塗り絵」をなさっていたのですか?