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競馬かわらVAN(リレーコラム)

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第82回 藤沢和雄調教師の仕事―その1

2009/12/14(月)

9月27日、中山競馬の8レースで藤沢和雄調教師が、JRA通算1000勝の記録を達成した。厩舎開業以来22年目ということは、年間45勝以上の勝星の積み重ねがあったことになる。そして5395戦の1000勝は、勝率にすると、1割8分5厘強。史上13人目、最速、最年少の記録達成である。

植樹:富岡トレセン場長と葛西助手
植樹:記念植樹は藤沢調教師の希望でヤマボウシが植えられた。富岡トレセン場長と葛西助手。

記念碑:1000勝達成の記念碑

この偉業に対して11月25日、美浦トレーニング・センターで記念碑の除幕式と植樹が行われた。

藤沢調教師が快挙を達成した夜、久しぶりに「競走馬私論・馬はいつ走る気になるか」(クレスト新社)を開いてみた。この本は、藤沢師が1999年に著したもので、改めて一つ一つのフレーズが胸に沁みて、1000勝の道程が少し理解できたような気がしたが、更に話を聞いてみたいという欲望が強くなってしまった。出版後10年を経た今、続編を期待して藤沢師を訪ねてみた。

藤沢師が、今も心に刻みつけている言葉がある。それは父親から言われた「からっぽやみの仕事はするな。」という言葉である。仕事をする際には、めんどうくさがったり、手抜きをしたり、集中力を途切れさせてはいけないという教えである。父・藤沢武雄さんは、伐採した木を山から馬を使って下ろす仕事を生業としていたが、藤沢師は定時制の高校に通いながら、兄達と共にこの仕事に従事していた。危険を伴う仕事だけに、より身に沁みたとも言えるが、こうした内容の言葉は、我々でも親から言われつづけてきた筈なので、これだけ心に残っているのは、藤沢師自身の天性も中途半端なことが嫌いであることが伺われる。と同時に、馬とのつきあいはこの時から始まったのである。

とにかく、自他共に認める働き者。調教師の役割というのは非常に多岐にわたっており、馬主の対応、一頭ずつのレーススケジュール、そしてそれに伴う個々の馬の調教、スタッフに対しての的確な指示、その後の結果分析、アフターケア、馬の入れ替え、更には従業員対策、金銭面の管理etc.・・・。普通の企業でいえば、社長、営業、総務、経理、制作を1人で担当しているようなものだが、どれ一つとして手を抜くことが許されない立場。たった一つのミスが、馬主、従業員の不信を招き、あっという間に負のスパイラルに巻きこまれることが見えているだけに、働き者にならざるを得ないのだろうし、それができなければ調教師なんかやめた方がいいという考えで押し通してきたことがわかる。水曜日の追いきりの日とはいえ、南馬場から坂路、北馬場、厩舎と、刻々と場所を移動しながら全馬の調教を確認する午前中、厩舎を訪れた馬主との昼食、その後放牧中の馬の確認、厩舎での午後作業、馬主への報告と息を抜く暇もない。北村宏騎手に聞いた話だと思うが、「先生はどんな時でも必ず見ています。」というぐらい、運動から調教をその目で確認しているのだから、どれだけ集中力を持続しているか計りしれない。

藤沢師は大学を卒業してから4年間、ニューマーケットのプリチャード・ゴードン調教師の下で厩務員として過ごしている。その間、英国流の競馬の根本を学ぶのだが、眠る時間以外、常に厩舎で過ごし不完全な英語で馬に語りつづけたという。そして、馬の表情、仕草を見ながら、何がしたいのか、何を欲しているのか、何を嫌がっているのかを探りつづけた。馬のフィジカルな部分と共に、メンタルな部分でのケアを心掛ける、藤沢師の原点は、ここから生まれたのではないだろうか。

その後、帰国した藤沢師は、すぐに中山の菊池一雄厩舎の調教助手を勤めるのだが、ニューマーケットとの様々なギャップにとまどう様子が、本には詳しく書かれている。ところが、菊池調教師の体調不良もあって、わずか1年で調教師代行に任命されるのである。昭和53年のことである。私も競馬の仕事に携わって8年ほど過ごした頃で、様々なケースを見ていたが、こうした例を殆ど知らない。大体厩舎には、番頭さんと呼ばれるベテラン調教助手がいて、その人が仕切った方が波風は立たないのだが、まさに異例の抜擢といえる。大学卒、27歳の若年、ましてやイギリス帰りと、爪弾きされる要因が揃い過ぎている。この悪条件をはね返したのは、つまるところ、陰日向の無い、そして骨惜しみしない仕事ぶりしかなかったことは想像に難くない。菊池調教師が、そして最古参の武井厩務員が藤沢師の意見に耳を傾けるようになって、不満分子は沈黙せざるを得ない。その3年後、皐月賞、ダービーの二冠を制したカツトップエースが出現したのは、偶然ではなかったのだろう。その頃には、馬主も若い調教師代行には、一目置いていたに違いない。只、ニューマーケットとは施設が違う、馬が違う、人の意識が違うという様々なギャップの中で、藤沢師はがむしゃらに働いた。人がやってくれない以上、自分で動くしかないからである。当時を振り返って「よく体が持ったと思いますよ。」と語っているが、与えられた環境という枠の中で精一杯努力し、結果を出していく日々は、菊池調教師が急逝し厩舎が解散する1年後まで続いたのである。只、この間の働きぶりと手腕を、見る人は見ていたのだろうと思う。その後の藤沢厩舎のバックアップ体制の芽は、この時代からであったに違いない。

その後、昭和63年の開業まで、野平祐二調教師の下で過ごすのだが、調教師になる為の準備期間でもあったようだ。自分で描く理想の競走馬を育てる為に、自分が本当にやりたいことをする為には、どうしても調教師になる必要があった。野平厩舎ではシンボリルドルフと巡り合い、和田共弘さん、更にシンボリ牧場の凄さを知るのである。

競走馬12頭、厩務員6人、調教助手2人という陣容で、いよいよ藤沢厩舎はスタートした。もちろん寄せ集めの集団である。最初のミーティングで藤沢師は独裁宣言を行う。5年間は自分の思いどおりの方式でやらせてもらって、皆の意見に従うつもりはないと・・・。
馬を扱う上での根本的な意識改革の第一歩のスタートだった。厩務員全員の乗馬訓練に始まり、馬の扱い方の改革、特に馬にかける愛情と時間の少なさを痛感していた藤沢師は、徹底的に時間をかけることを要求した。先に立つ者ががむしゃらに働かれると、後に続く者としては、時に非常にやりにくいことはあるものだが、徐々にその状態が藤沢厩舎の常識になっていき、結果がついてくるようになってきた。1年目こそ8勝だったが、2年目以降15勝、22勝、36勝と急激に勝ち鞍が増加している。その後、コンスタントにリーディングトレーナーの座を保っていくのだが、その話は、次回改めて記してみようと思う。

 

藤澤和雄調教師 G1勝利表

競走名
馬名
1993年
マイルCS
シンコウラブリイ
1995年
朝日杯3歳S
バブルガムフェロー
1996年
天皇賞(秋)
バブルガムフェロー
1997年
高松宮杯
シンコウキング
安田記念
タイキブリザード
マイルCS
タイキシャトル
スプリンターズS
タイキシャトル
1998年
安田記念
タイキシャトル
マイルCS
タイキシャトル
阪神3歳牝馬S
スティンガー
1999年
NHKマイルC
シンボリインディ
2001年
マイルCS
ゼンノエルシド
2002年
天皇賞(秋)
シンボリクリスエス
有馬記念
シンボリクリスエス
2003年
天皇賞(秋)
シンボリクリスエス
有馬記念
シンボリクリスエス
2004年
桜花賞
ダンスインザムード
天皇賞(秋)
ゼンノブロイ
ジャパンC
ゼンノブロイ
有馬記念
ゼンノブロイ
2006年
ヴィクトリアマイル
ダンスインザムード
※2009年12月14日現在

ライタープロフィール

白川 次郎 (しらかわ じろう)

1945年11月生まれ、高知県出身。元日本短波放送・ラジオたんぱ・ラジオNIKKEIアナウンサーで現在はフリーアナウンサー。ラジオNIKKEIにて『中央競馬実況中継』など、競馬番組を中心に担当している。また、関東地方の独立UHF放送局放送『中央競馬ハイライト』の土曜日キャスターとしても出演している。

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