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第78回 最後の個性派 田中剛騎手

2009/11/16(月)

障害戦が好き、田中剛のプレーが好きで、随分長い間彼の話を聞いてきたが、10月31日の引退式をもってとうとうターフを後にした。障害戦の勝鞍207勝は、星野忍さんの254勝、嘉堂さんの220勝につぐ史上3番目の記録になる。自らの引退式でお世話になった恩師の柄崎義信元調教師と辻牧場の代表者に花束を贈ったのは、いかにも律儀な人柄ゆえであろう。奥様も加わった記念撮影の後、横山典弘騎手の「さあ、ボツボツ始めようか」という発声で行われた胴上げの際の恥ずかしそうな表情も、強く印象に残った。

夫人と共に 随分多くの騎手が参加した引退式であった
ファンに向けての感謝の言葉 夫人にも向けられているように感じられた
やはりファンは、30年にわたる苦闘をわかってくれていた。

田中剛騎手といえば、プレー以外でも強く心に残った出来事を思いだす。2年程前、東京の障害戦で彼は落馬事故に巻き込まれてしまった。救急車で戻ってきた彼は救護所には向かわず、そのまま検量室に消えてしまったが、間もなく姿を現わすと今度は調整ルームの方向に歩き出した。右頬に負った傷からは鮮血が吹き出し、押さえたタオルを赤く染めている。思わず救護所へ行くことを勧めたが、彼は平然と「いや、救護所で手当を受けてしまうとその後シャワーを浴びることができないので、先に浴びてきます。」と言い残すとスタスタ歩み去ってしまった。呆然と見送りながら背筋に冷たい物を感じていたが、改めて障害戦に携わる騎手の日常と意識を垣間見た思いだった。

田中剛騎手は昭和36年、新宿区市谷で生まれている。父はフライ級世界ランキング1位にまで登りつめたプロボクサー。幼い頃から父の後を慕ってボクシングジムでのトレーニングに明け暮れ、聖地・後楽園ホールへは毎週欠かさず通っていた。気の強さ、負けず嫌いは天性のものかも知れないが、ボクシングチビッ子大会にも出場し、ボクサーになることしか考えない小学生時代を過ごしている。そんな姿を見ていたのが、父の後援会長であり暁ジムのオーナーでもあった中内佐光さんで、体は小さいし気も強い、競馬の騎手になったらどうだと勧められ、中内さんの紹介で柄崎義信調教師の門を叩いたのは小学校5年生の時であった。そして柄崎師の勧めで浦河の辻牧場での修行に入るのだが、小学校を卒業したばかりの剛少年にとっては、何が何だかわからないうちに話は進んで行く。当時、彼が一番欲しかったのは、フラッシャー付きの自転車とプラモデルであったが、牧場へ行くなら買ってくれるという条件で北海道行きを承諾することになる。この自転車に乗って牧場から中学校まで5キロの道程を3年間通うことになるのだが、都会育ちの彼にとって、浦河はただ真暗で淋しいところだった。

辻牧場では、馬に乗ることはもとより、厩舎作業、更には2歳馬の馴致にまで携わっており、その後入学した馬事公苑の競馬学校で大いにその効果を発揮している。他の生徒が苦労する中、乗馬技術も寝藁作業も群を抜いていたようだ。この牧場で過ごした3年間が、30年に及ぶ彼の騎手人生の礎という思いが引退式の際、辻牧場に贈られた花束にこもっていたのである。当然、騎手試験には1回で合格している。そして、この辻牧場で修行した3年間の費用は、全て柄崎調教師が負担したことを、彼は後になって知ったのである。

カチウマタロー 1980年(昭和55年)中山大障害(秋)

騎手デビューは昭和54年。この年巡り合ったカチウマタローは、忘れられない馬であり、多くの事を教わった馬と田中剛騎手は語る。もちろん初めての勝ち星を経験させてくれたこともあるが、初めての落馬をも味わっている。馬が躊躇しているにもかかわらず、しかけていって転倒させてしまった。この教訓から、彼は馬の状態、精神状態を把握する重要性を学んでいくことになる。そしてデビュー7年目には、オンワードボルガで東京障害特別・秋と中山大障害・秋、更にピーチシャダイで東京障害特別・春と、関東の4つの障害のビッグタイトルのうち、3つを制覇している。乗ることがあたりまえで、とにかく人に負けたくなかった。騎手生活が楽しく、落ちて怪我をしても痛くなかったし、先輩が断るような馬でも平気で引き受けていたので、気が強い、ずぶい、飛ばない馬の依頼が多かったという。平地競走でも拍車をつけなければ走らないようなタイプの馬の騎乗依頼が増えたが、気性にムラがあったシャマードシンボリは印象に残っているようだ。L.デットーリが乗って900万クラスのレースを勝った後、1500万クラスのレースで依頼を受けて勝たせており、金杯でも騎乗したのだが、とにかく外国人騎手には負けられないという気持ちが原動力になっていた。

障害競走と共に平地競走でも活躍したいという気持ちは、恐らく騎手引退を決める日まで心の中にはあったことだろう。やはり障害と平地レースでは、アピール度が違うと田中剛騎手は言う。ダービーやジャパンカップ騎乗は憧れでもあり、夢であった。障害に騎乗すると平地の依頼が減少するという現実に悩んでいた彼の迷いを吹き飛ばしてくれたのは、まだ調教助手時代だった頃の国枝栄調教師だった。「平地でも障害でも、何でも乗って勝つことだろう。勝たなければしょうがない。」という言葉で彼の迷いは消える。自分は馬を御すことが好き、勝つことが好きなんだ、これは平地でも障害でも同じことなんだと。

障害戦に携わって面白い点について、彼はこう語っている。「馬自体の仕上げを任せてもらえるんですよ。踏み切りのタイミング、着地、ハミを当てて脚を上げさせたり、馬との信頼関係を築いていって、それで結果を出すことですね。」1週に1度、ないし2度しかない障害戦で200勝を達成した。日々の努力が偲ばれる。

障害騎手にとって怪我はつきものと言われているが、肋骨や指の骨折などは怪我とは言わないそうだ。田中剛騎手は左肘を骨折しボルトとワイヤーで固定する手術を受けた半月後、レースに騎乗して勝星を挙げるが、その代償として骨の移植を伴う大手術を受けることになる。とにかく外科手術だけで15回、心臓のカテーテル手術を4回受けている。競馬に乗れず、精神的にも辛い日々だったと振り返っているが、奥さんは競馬の日もふくめて寝間着を着て寝られなかったそうだ。無事に帰ってくるまで、何かあったらすぐに出られるようにという心構えからだが、そのことを知って以来、乗ることだけが全てだった彼の心の中に、自分1人だけではない、行動にまで気をつける家族を思う気持ちが根づいていったようだ。今年、彼は頚骨の大手術を受けたが、残念ながら思うような結果が出ず、騎手を続けたい一心で再手術を受けることにしていた。しかし、今回手術をした場合、騎手はおろか、調教助手にもなれない可能性が高いと医師に言われ断念している。結局、これが引退の引き金になってしまったのだが、障害戦歴代1位、254勝の記録を持つ星野忍調教師は「勝負に向かって個性というかポリシーを持った最後の男だったかも知れない。怪我で乗れないというのは、一番辛く、苦しかったと思うが、次の仕事に向かって遅くなってしまうより、調教師として、又頑張って欲しい。」とエールを送る。

調教師に向けて「勉強というのも根性がいるもんなんですね。乗り役時代の根性を、今度は勉強の方に振り向けます。」と田中剛騎手は語っている。その言葉の中に、奥さんの為に、家族の為にという思いを強く感じた。

田中剛騎手のエピソードは、海外遠征などを含め、まだ数々あるが、今後の経過をも見ながら、機会を改めて紹介したい。

ライタープロフィール

白川 次郎 (しらかわ じろう)

1945年11月生まれ、高知県出身。元日本短波放送・ラジオたんぱ・ラジオNIKKEIアナウンサーで現在はフリーアナウンサー。ラジオNIKKEIにて『中央競馬実況中継』など、競馬番組を中心に担当している。また、関東地方の独立UHF放送局放送『中央競馬ハイライト』の土曜日キャスターとしても出演している。

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