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競馬かわらVAN(リレーコラム)

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第70回 今、改めてエルコンドルパサー

2009/9/21(月)

ブエナビスタが札幌記念で惜敗した直後、凱旋門賞への挑戦を断念するという一報が新潟競馬場の放送席に届いた。重量の面だけでなく、その底力から楽しみにしていただけに、一瞬ビックリした。と同時に、関係者が凱旋門賞というレースを、どれだけ重く評価していたか改めて感じたものである。40年も前のスピードシンボリ、メジロムサシの時代から続いている凱旋門賞挑戦の歴史の中で、ようやく可能性が感じられる時代に入ったように思うが、やはり凱旋門賞制覇の道は遠く、ディープインパクトもメイショウサムソンもはね返されている。

凱旋門賞に挑戦した日本馬のリストを見ていると、エルコンドルパサーの、1/2馬身差2着というのは殊更、光って見える。二ノ宮敬宇調教師を訪ねて、改めて当時の話を伺ってみた。

二ノ宮師がエルコンドルパサーを初めて目にしたのは、平成7年7月のこと。母のサドラーズギャルは、我が仔に全てを与え尽くしたようにみすぼらしい姿になっていたが、産駒はゴロっと角ばっており、父のキングマンボに似ているなという程度の印象しかなかったという。それでも一年後の秋、来日したときには、二ノ宮師が好きなマイラータイプの体つきになっていた。意外におとなしく、調教に手間取ることもなかった。

平成9年、2歳の11月にデビュー。早いうちに固い馬場で馬を傷つけないよう、東京のダート、1600mがその舞台となった。ゲートから一気に加速する調教をしていなかったとはいえ、馬群からみるみる遅れだし、殿からの追走に、二ノ宮師は何でこんなに走らないのだろうと、半分あきらめの境地でレースを見ていた。ところが4コーナーが近づいたところで、スイッチが入ったように猛烈に追い上げ、劇的な逆転を演じて見せたのである。しかもレースを終えて戻ってきたときには、もうケロっとしており、その精神力の凄さをも併せて見せてくれた。

年明け、中山の二戦目もダートで問題なくクリア、3戦目の共同通信杯も、雪の影響でダート変更になったとはいえ、同世代のメンバーをまったく問題にせず、土つかずの3連勝を果たした。

ところで開業9年目に入った二ノ宮師にとって、この共同通信杯が初めての重賞勝ち星であった。免許を取得したその年の半ばの開業、馬を預けてくれるオーナーも乏しく、調教助手はいない、スタッフは全て年上という状況での船出だった。その年2勝、翌年9勝、3年目も9勝という苦境の中、二ノ宮師はあまりにも目先のこと、厩舎のことばかりに目を向けすぎたことを反省し、他人が5年で一人前の調教師になるのなら、自分は10年をかけようと決意、根本的に馬と向きあうことになる。積極的に海外へ出向き、馬を見、レースを見、育成の過程を貪欲に見て回った。独自の人脈もでき始めた、その年に獲得した初めての重賞である。

エルコンドルパサー1998年(平成10年)ジャパンカップ

さて、外国産馬ゆえの出走制限から、エルコンドルパサーは、その後ニュージーランドトロフィー、NHKマイルカップに挑戦し5戦5勝でマイルのチャンピオンの座について春シーズンの戦いを終えるのであるが、秋シーズンを迎える頃には更に成長し、1800mなら十分に戦える雰囲気を感じさせるようになっていた。秋初戦の毎日王冠はサイレンススズカの前に、初めて敗戦を記録したが、2着争いから抜け出してきたレースぶりに、二ノ宮師は距離の面でも確かな手応えを感じていた。そして期待を込めて送り出したジャパンカップで、エルコンドルパサーは押しも押されもせぬチャンピオンの座につくのである。この段階でオーナーがかねがね夢みていた海外遠征の計画が、具体的に進み始めた。

オーナーがかねてから親交を深めていた桜井盛夫、奥野庸介、合田直弘の3氏に二ノ宮師との会合が何度も行われた。それは夢を語り合う会ではなく、いかに進めればエルコンドルパサーが大目標に到達できるか、微に入り細にわたる徹底した話し合いであったという。二ノ宮師も、常に最悪の状況を想定し、いかに対処すべきか、細大漏らさずチェックしていた。そして計画を実行に移すにあたって、チームエルコンドルパサーが組織されることになる。受け入れ先のトニー・クラウト調教師、輸送にかかわる旅行代理店のエージェント、獣医師、装蹄師、調教スタッフと、総勢25名と1匹(というのは、オーナーの愛犬ヴィヴィアンの名前もスタッフリストに載っていた)。そしていよいよ平成11年4月14日、エルコンドルパサーは日本を旅立った。先に到着していた二ノ宮師は、エルコンドルパサーの到着を待ち受けていたが、負けたらすぐに帰ろうという心境だったそうだ。

いよいよ調教が始まったが、当初エルコンドルパサーは、3ハロン、15秒、15秒という調教がこなせなかった。深くて、ズブっと蹄が入ってしまう馬場で、まともに前に進めなかったという。クラウト厩舎の協力であちこちの調教場を試したりしながらもエルコンドルパサーは徐々に慣れ、調教に耐えた。その結果、凄い筋肉を手に入れたそうだが、調教パートナーは次々と故障して脱落、最初のレース直前のシャンティーでの追い切りは、途中に馬を待たせておき、3頭の馬と次々に併せ馬を行う形をとらなければ、まともに攻められなかった。二ノ宮師は、攻めなければ勝てないという思いから、決して調教の手をゆるめなかった。

二ノ宮調教師

初戦のイスパーン賞は、クロコルージュに3/4馬身およばず2着ではあったが、6週間後のサンクルー大賞では、61sを背負い、2400mの距離で圧勝してみせた。しかしレース中に負った外傷が化膿し、日本から獣医師を派遣してもらって対応したのである。そしてその後の戦い、フォワ賞までの間隔が、10週間、何とも中途半端な期間。二ノ宮師は、この期間が一番苦しかったとふり返る。それでもエルコンドルパサーは力走してフォワ賞を制し、いよいよ凱旋門賞へと駒を進めることになる。直前の追いきりの日、深い霧の中、エルコンドルパサーが手応え十分に直線を駆け抜けた直後、一頭の馬が二ノ宮師の前を過ぎ去っていった。肩の力が抜け、いい感じの走りだった。こういう調教があるのかと二ノ宮師は思ったが、実はこの馬がモンジューであった。

凱旋門賞は九分九厘まで勝利を手にしていたが、あと一歩のところで夢をかなえることができなかった。「全てをやりつくしましたし、エルコンドルパサーはよく耐えてくれました。しかし、勝つ為には何をするべきだったのか、日本流とは違う作戦がある筈なのに、馬の力を信じるだけで、そこまで考える余裕がありませんでした。それが反省点ですね。」と二ノ宮師は語った。

10年の歳月を経て、改めてエルコンドルパサーの凱旋門賞挑戦の経緯を二ノ宮師に語ってもらったが、日本馬による凱旋門賞制覇は、案外近い未来かも知れないし、あるいは遠い将来か?いずれにしても、人と馬が大きな夢に向かって突き進んだ、あのドキドキするドキュメントをもう一度見てみたい。

 

エルコンドルパサーの海外遠征成績

開催日
開催場
競走名
着順
騎手
コース
1・2着馬(着差)
1999/5/23
ロンシャン(仏)
イスパーン賞(G1)
2着
蛯名正義
芝1850m
クロコルージュ(3/4)
1999/7/4
サンクルー(仏)
サンクルー大賞(G1)
1着
蛯名正義
芝2400m
タイガーヒル(2.2/1)
1999/9/12
ロンシャン(仏)
フォア賞(G2)
1着
蛯名正義
芝2400m
ボルジア(短首)
1999/10/3
ロンシャン(仏)
凱旋門賞(G1)
2着
蛯名正義
芝2400m
モンジュー(1/2)

ライタープロフィール

白川 次郎 (しらかわ じろう)

1945年11月生まれ、高知県出身。元日本短波放送・ラジオたんぱ・ラジオNIKKEIアナウンサーで現在はフリーアナウンサー。ラジオNIKKEIにて『中央競馬実況中継』など、競馬番組を中心に担当している。また、関東地方の独立UHF放送局放送『中央競馬ハイライト』の土曜日キャスターとしても出演している。

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