競馬かわらVAN(リレーコラム)
第18回 プロの意識とは
2008/9/22(月)
振り返って見ると随分長い間、実況をしつづけたものだ。とにかく奥の深い分野で、いまだに表現を模索しているだけに、立ち止まったり、振り返るのは実況をやめてからにしようと思っているが、37年間はやはり長い。好きで始めたわけではなく、いやいや続けたような気がするが、いつしか実況中に気分が高揚したり、ギリギリ集中する素晴らしさを知るようになった。とは言うものの、何とか実況のノウハウを覚えて、放送にも使ってもらえるようになった頃、一番恐ろしかったのは、実況を終えた後の先輩の講評であった。最初は懇切丁寧であったものが、時間の経過と共に、溜息まじりの講評に変わっていき、競馬場はまさに針の筵のような場所になってしまった。今思い出しても、自分の覚えの悪さに恥じ入ると共に、じっくりと育ててもらった事に感謝している。
さて、ある時期を経ると、レース実況の後に厳しい先輩達が何も言わなくなる段階がやってくる。自分で考えながら進むべき時期なのだが、私の受けとめ方は、これでもう一人前と認められた、スポーツの実況の中でも難しいと言われた競馬の実況を、自分はすっかり身につけたという思いこみであった。実況が一番楽しかった時期であり、又、今思えば一番危険な時期であった。当然のことながら、楽しく、伸びやかに実況できた期間は、あっという間にピリオドを打つことになる。車の運転でいうならば、ちょっとした気のゆるみで対向車に接触しそうになったり、駐車場で他の車や施設に傷をつけてしまったりと、致命的ではないものの、ヒヤッとしたり事故に遭遇するのによく似ている。気のゆるみ、集中力の欠如、思いこみから馬名の間違い、別の馬との取り違えなど、胃袋がギュッと鷲掴みにされたような思いをしてから、ようやく実況の責任に思い当たることになる。競馬の実況が、他のスポーツの実況と比べて違う点、ファンがお金を投じているのだということを、改めて思い知る。因みに平成8年、サクラローレルの勝った有馬記念では、875億円を越す大金が投じられている。ごめんなさいでは済まされない状況で、過去の例に照らしてみても実況停止はもちろん、退社ということにもなりかねない処罰が待っている。
こうしたヒヤッとする経験を経て、実況アナウンサーは一人前になっていくのだが、私の場合もすっかり臆病になったような気がする。もっとも野生動物の世界でもそうだが、臆病でなければ長生きはできないであろう。ただ内心では鬱鬱とするものがあって、胃薬は欠かせないものになった。
そんなモヤモヤとした蟠りに、スッキリと区切りをつけてくれたのは、野平祐二さんの一言であった。「いまだに実況の際に、恐さが残るのですが・・・。」と話した私に対し、野平さんは「それは、あなたがプロだからですよ。」と、たった一言だけ答えてくれた。言われた瞬間、野平さんの真意を完全に理解できたかどうか、自信はなかったが、何か胸につかえていたものが、スーッととれたような気がしたことを記憶している。と同時に、野平さんはプロとしてどのように考え、どのように行動してきたかが気になりだして、事あるごとに伺ってみた。

野平祐二さんは、中山の名門、野平省三調教師の子息であったが、競馬に対してキチッとした考えを持った環境で育てられましたと語っている。当時の野平さんの話しを再現してみよう。「私は不況の時代に育っているせいか、やはり競馬のために何かしなければならない、何とかしていかなけりゃならんという、その気負いばっかりがあったんで、何か恐くて早く騎手を辞めたい、逃げ出したいという不安の方が多かったですね。それは騎手として素晴らしいレースができて、素晴らしい感触や、肌に残っているものはありますがね。でもそれとても、競馬というのは、勝つか負けるかで決まっているんだし、負けて、ああ素晴らしかったとは、とても自分ごとでは言えません。」
野平祐二さんと言えば、騎手時代から「ミスター競馬」と呼ばれ、その華麗な騎乗ぶりで多くのファンを魅了すると同時に、競馬とは何か、競馬はどうあるべきか、様々な機会にアピールしつづけた人である。中山競馬が終わった日曜日の夜、競馬場近くの野平家の居間は、サロンと呼ばれ多くの人々が集うのが恒例であった。作家、俳優、ミュージシャン、タレント、そしてマスコミの人間が、入れ替わり立ち替り訪れて野平さんの話しに耳を傾けたものである。いわば言葉は悪いが啓蒙と言ってもよいであろう。競馬がここまで市民権を得るまでに果たした野平さんの功績は計り知れない。その野平さんが、逃げ出したい、早く騎手を辞めたいと思っていたことを知ることができたのは、うまく言えないが大きな財産を頂いたような気分であった。
又、プロの騎手としては、上手に馬を勝たせるということと、スタンドに詰めかけたファンに騎手として一番いい仕事をして、魅せるということを語っている。その実際例をあまり伺うことができなかったのは、いまだに残念だが、一つだけ憶えているのは、ゴール前では、スタンドから見える側で鞭を使ったという話しである。鞭は本来、馬を叱咤激励したり、斜行しそうになるところを矯正する為に使うと聞いているが、野平さんの話しからは、スタンドのファンをよりエキサイティングな気分にする為にも使っていたことがわかる。
さて、実況アナウンサーがファンに何を伝えていくか、ということになるが、当然、客観的なスタンスが基本であることは言うまでもない。ところがこれがなかなか難しいことであって、18頭の動きを瞬時に言い現わすことはまず不可能。従って馬の順番、前の馬との間隔、内・外などの位置どり、通過地点、ペース等を基本型にしているのだが、競馬場やコース、クラス、話題の馬や人気など、プラスαの要素も加わってくる。できたら、馬や騎手のアクションも表現してみたい。
1分から2分と、レースの走破タイムはほとんど決まっている。その中で馬名を言う時間を除くと、使える言葉はそう多くはない。言葉の省略と共に、思い切った発想の転換がなければ、とても表現しきれないし、その為にレースの性格やポイントを理解できなければならない。反射神経の衰えと戦いながら、まだまだ極めなければならない課題は多い。
現在、私が実況の前に思うことは、プロとして最低限のことだけはしようということである。レースがどう動いて決着したか、とにかくわかるようにだけはしたい。開き直りととられるかも知れないが、精神的なプレッシャーに押し潰されない為の方便とご理解頂きたい。
野平祐二氏の騎手実績
通算成績 |
総騎乗回数 |
7,280 |
1着 |
1,339 |
|
2着 |
1,173 |
|
3着 |
1,047 |
|
4着 |
855 |
|
5着 |
730 |
|
着外 |
2,136 |
|
主な勝鞍 |
桜花賞(昭和39年 カネケヤキ) | |
| オークス(昭和39年 カネケヤキ) | ||
| 天皇賞(昭和34年・春 トサオー、昭和42年・春 スピードシンボリ、昭和43年・春 ヒカルタカイ) | ||
| 有馬記念(昭和44年、45年 スピードシンボリ) | ||
年間最多勝利騎手 (昭和29年〜) |
昭和32年、昭和33年 (計2回) |
|
優秀騎手賞等受賞回数 (昭和30年〜) |
17回 |
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騎手免許 |
昭和19年〜昭和50年 ※昭和50年に調教師免許取得 |
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ライタープロフィール

白川 次郎 (しらかわ じろう)
1945年11月生まれ、高知県出身。元日本短波放送・ラジオたんぱ・ラジオNIKKEIアナウンサーで現在はフリーアナウンサー。ラジオNIKKEIにて『中央競馬実況中継』など、競馬番組を中心に担当している。また、関東地方の独立UHF放送局放送『中央競馬ハイライト』の土曜日キャスターとしても出演している。
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