憧れに挑み続けた時代

 

●スピードシンボリの果敢な挑戦

 凱旋門賞は、日本のホースマンにとって、ずっと「憧(あこが)れ」のレースでしかなかった。海外旅行さえ金持ちのぜいたくといわれていた頃、遠い遠いパリで行われる世界一決定戦に参戦する、ましてや勝つなどということは、途方もない夢物語であった。

 日本初の海外遠征馬はハクチカラである。同馬は日本ダービー、天皇賞、有馬記念などを制した後、1958年に5歳(現表記)で渡米。10戦勝てなかったが、11戦目に尾形藤吉騎乗でワシントンバースデーH(G1)を制した。
 その後、日本馬の海外遠征といえば、国際招待のワシントンDCインターナショナルS(芝2000m)が主戦場となる。62年のタカマガハラ、64年リユウフオーレルにはじまり、80年ハシクランツまで9頭が挑んだが、最高着順は67年スピードシンボリの5着。なお、ブリーダーズCの創設(84年)に伴い、徐々にその意義を失ったワシントンDCは、95年に廃止されている。

 さて、そのスピードシンボリこそが、凱旋門賞に挑戦した初めての日本馬である。遅咲きの同馬は、菊花賞2着から徐々に調子を上げて4歳(現表記)春の天皇賞を制覇。ワシントンDCに挑戦したあとも日本で3つの長距離重賞を制し、69年に6歳にして渡欧。7月のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSで5着に入り、8月のドーヴィル大賞典で10着後、凱旋門賞に挑んだ。
 この年の凱旋門賞は24頭立て。野平祐二とスピードシンボリの名コンビは、最後方に近い位置取りから直線に入って追込みを開始したが、レヴモスの10着に敗れている。キングジョージで直線先頭に立って「これはいける、と思ったらあっという間に4頭に抜かれた」(野平氏の述懐)経験から、今度は追込み策。しかし、それでも勝ち負けに持ち込むのは難しかった。

 スピードシンボリは、帰国後最初のレース有馬記念で6番人気の低評価を覆して勝ち、翌7歳時も宝塚記念と有馬記念に勝った。これほどの馬でも、凱旋門賞ではまったく歯が立たないのか…。競馬関係者だけでなく、ファンの間にも、諦めのような気持ちが広がっていった。


 その後、72年にはメジロムサシ(18着)、86年にはシリウスシンボリ(14着)が挑戦したが、大きな壁に簡単に跳ね返された。以降、99年のエルコンドルパサーの挑戦まで、日本のホースマンたちは世界に通じる競走馬の生産・育成・調教に励んだ。憧れを、憧れのままで終わらせないために。


■1969年凱旋門賞
着順 馬名 性齢 タイム(着差) 騎手 斤量
1 レヴモス 牡4 2.29.0 W.ウィリアムソン 60
2 パークトップ 牝5 3/4馬身 L.ピゴット 58.5
3 グランディア 牡4 3馬身 M.フィリッペロン 60
10 スピードシンボリ 牡6 --- 野平祐二 60
 
■1972年凱旋門賞
着順 馬名 性齢 タイム(着差) 騎手 斤量
1 サンサン 牝3 2.28.3 F.ヘッド 54
2 レスクセ 牝3 1馬身1/2 Y.サンマルタン 54
3 ホーメリック 牡4 1/2馬身 M.フィリッペロン 60
18 メジロムサシ 牡5 --- 野平祐二 60
 
■1986年凱旋門賞
着順 馬名 性齢 タイム(着差) 騎手 斤量
1 ダンシングブレーヴ 牡3 2.27.7 P.エデリー 56
2 ベーリング 牡3 1馬身1/2 G.ムーア 56
3 トリプティク 牝4 1/2馬身 A.コルデロJr 57.5
14 シリウスシンボリ 牡4 --- M.フィリッペロン 59
 

 

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